仮字[カナ]の事
[此の記にもちひたる仮字のかぎりを左にあぐ]
アから始まりイ、ウ、エ、オと続き
三十八葉からは假字用格[カナヅカヒ]乃こ登 と四十二葉迄解説がある。
此記に用ひたる假字のかぎりを左にあぐ。
此ノ外に、延佳本又一本に、白檮原(カシバラ)ノ宮ノ段に、 亞亞(アヽ)といふ假字あれども、誤字(アヤマレルモジ)と見えたり。 其由は彼處(ソコ)に辨(ワキマフ)べし。
此ノ中に、汚ノ字は、上卷石屋戸(イハヤド)ノ段に、 伏汚氣(ウケフセ)とたゞ一ツあるのみなり。
此ノ中に、愛ノ字は、上卷に愛袁登古(エヲトコ)愛袁登賣(エヲトメ)、 また神ノ名愛比賣(エヒメ)などのみなり。
此ノ外に、下卷高津ノ宮ノ段ノ歌に、於志弖流(オシテル)と、 たゞ一ツ於ノ字あれども、一本に淤とあれば、後ノ誤リなり。 隱ノ字は、國ノ名隱伎(オキ)のみなり。
此ノ中に、甲ノ字は、甲斐(カヒ)とつゞきたる言にのみ用ひたり。 國ノ名のみならず、カヒとつゞきたる言には、すべて此ノ字を書り。 可ノ字は、中卷輕嶋ノ宮ノ段ノ大御歌に、阿可良氣美(アカラケミ) とあるのみなり。 下卷朝倉ノ宮ノ段ノ歌に、延佳本に、可豆良(カヅラ)とあるはひがごとなり。 賀ノ字は、清濁に通はし用ふといふ人もあれど、然らず。必濁音なり。 記中の歌に、此字の見えたる、おほよそ百三十あまりなる中に、必清音なるべきところは、 たゞ五ツのみにして、其餘(ソノホカ)百二十あまりは、ことゞゝく濁音の處なればなり。 何ノ字は、上卷ノ歌に、和何(ワガ)と三ツ、また岐美何(キミガ)ともあるのみなり。我ノ字は、中卷に、姓の蘇我(ソガ)のみなり。下卷には宗賀(ソガ)とかけり。
此ノ中に、伎ノ字と岐ノ字との間(アヒダ)に、疑はしきことあり。 上卷の初(ハジメ)つかたしばしがほどは、清音には伎ノ字を用ひ、 岐ノ字は濁音にのみ用ひて、清濁分れたるに、後は清濁共に岐をのみ用ひて、 伎を用ひたるはたゞ、上卷八千矛ノ神ノ御歌に、伎許志弖(キコシテ)、 また那伎(ナキ)、鳴也。 中卷白檮原ノ宮ノ段に、伊須々岐伎(イスヽギヽ)、輕嶋ノ宮ノ段に迦豆伎(カヅキ)、 下卷高津ノ宮ノ段に、伊波迦伎加泥弖(イハカキカネテ)、朝倉ノ宮ノ段に由々斯伎(ユヽシキ)、これらのみなり。抑記中凡て一ツノ假字を、清濁に兼用ひたる例なきをもて思フに、本は清音の處は、終リまでみな伎ノ字なりけむを、字ノ形の似たるから、後に誤リて、みな岐に混(マギ)れつるにやあらむ。又伊邪那岐ノ命の岐字を、伎と作(カケ)る處もあり。是レはたまぎれつるなり。 されど今は定めがたければ、姑く岐をば清濁通用とあげつ。 貴ノ字は、神ノ名阿遲志貴(アヂシキ)のみなり。歌にも此字を書り。 幾ノ字は、河内の地名志幾(シキ)のみなり。大倭のはみな師木とのみかけり。 吉ノ字は、國ノ名吉備(キビ)、歌には岐備(キビ)と書り。 姓(カバネ)吉師(キシ)のみなり。 疑ノ字は、上卷に佐疑理(サギリ)、霧なり。中卷に泥疑(ネギ)三つあり。 須疑(スギ)過なり三ツあり。のみなり。 棄ノ字は、上卷に奴棄宇弖(ヌギウテ)とあるのみなり。 同じつゞきに此ノ言の今一ツあるには、奴岐(ヌギ)と書り。
此ノ中に、下ノ字は、上卷に久羅下(クラゲ)海月(クラゲ)なり。とあるのみなり。 牙ノ字は、中卷に佐夜牙流(サヤゲル) とあるのみなり。
此ノ中に、故ノ字は、上卷ノ歌に故志能久邇(コシノクニ)と、只一ツあるのみなり。 文(コトバ)には高志(コシ)と書り。 胡ノ字は、中卷白檮原ノ宮ノ段に、盈々志夜胡志夜(エヽシヤコシヤ)、二ツあり。 下卷甕栗ノ宮ノ段ノ歌に、宇良胡本斯(ウラコホシ)、これのみなり。 去ノ字は、白檮原ノ宮ノ段に、志祁去岐(シケコキ)とあるのみなり。 もしは古ノ字を誤れるには非るにや。 高ノ字は、地名高志(コシ)と、人ノ名高目郎女丸高王(コムクノイラツメマロコノミコ)と、これらのみなり。 碁ノ字は、或は基ノ字に作(カケ)る處もあり。是レは本より二ツかとも思はるれど、諸本互(タガヒ)に異(コト)にして、定まれざれば、本は一ツなりけむが、誤りて 二ツにはなれるなり。かくて何(イヅ)れを正(タヾ)しとも、今言(イヒ)がたけれど も、姑(シバラ)く多き方に定めて、基をば誤リとしつ。 其ノ字は、上卷ノ歌に只一ツあるのみなり。その同言の、前後に多くあるは、みな 碁基ノ字を書たれば、是レはたその字の誤リにこそあらめ。
此ノ中に、沙ノ字は、神ノ名人ノ名地ノ名に往々(ヲリヽヽ)用ひ、又中卷に沙庭(サ ニハ) ともある、これらのみなり。 左ノ字は、國ノ名土左(トサ)のみなり。又佐ノ字を、二所(フタトコロ)作と作(カケ) る本あり。上卷麻都夫作邇(マツブサニ)、また岐作理持(キサリモチ)これなり。 是(コ)は皆謝リなり。 邪ノ字、おほく耶と作(カケ)り。誤リにはあらざれども、漢籍(カラブミ)にも、 此ノ二字通はし用ひたること多し。玉篇に、耶ハ俗ノ邪ノ字といへり。 なほ邪を正(タヾ)しとすべし。奢ノ字は、神ノ名久比奢母知(クヒザモチ)、 奧奢加流(オキザカル)、伊奢沙和氣(イザサワケ)、 人ノ名伊奢之眞若(イザノマワカ)など、辭(コトバ)にも、中卷に伊奢(イザ)二ところ とある、これらのみなり。
此ノ中に、師ノ字は、壹師吉師(イチシキシ)のみなり。[師木味師(シキウマシ)など の師は、訓に取れるにて、借字(カリモジ)の例なり。假字の例には非ず。 色ノ字は、人ノ名の色許男(シコヲ)色許賣(シコメ)のみなり。 紫ノ字は、筑紫(ツクシ)のみなり。 芝ノ字は、下卷高津ノ宮ノ段ノ歌に、芝賀(シガ)と只一ツあるのみなり。 自字は、地ノ名伊自牟(イジム)、人ノ名志自牟(シジム)のみなり。 さて右の字どもの外に、中卷水垣ノ宮ノ段ノ歌に式ノ字一ツ、輕嶋ノ宮ノ段ノ歌に支ノ字一ツ、下卷高津ノ宮ノ段ノ歌に之ノ字一ツあれども、いと疑はし。 誤リならむか。なほ其ノ處々(トコロヾヽ)に論ふべし。
此ノ中に洲ノ字は、上卷に久羅下那洲(クラゲナス)とあるのみなり。 堅洲國(カタスクニ)洲羽海(スハノウミ)などの洲は、訓を用ひたるなれば、假字の例にあらず。 州ノ字は、上卷に州須(スヽ)煤なり。とあるのみなり。 洲州の内一ツは、一ツを誤れるにもあらむか。周ノ字は、國ノ名周芳のみなり。 さて右の字どもの外に、中卷水垣ノ宮ノ段ノ歌に、素ノ字一ツあれども、そは袁ノ字ノ誤リなり。
此ノ中に、曾ノ字は、なべては清音にのみ用ひたるに、辭(テニヲハ)のゾの濁音には、あまねく此ノ字を用ひたり。書紀萬葉などもおなじ。 故レもしくは辭(テニヲハ)のゾも、古ヘは清(スミ)て云るかとも思へども、 中卷輕嶋ノ宮ノ段ノ歌には、三處まで叙ノ字をも用ひ、又某(ソレ)ゾといひとぢむるゾにも多くは叙を用ひたれば、清音にあらず。然るにそのいひとぢむるところのゾにも、一ツ二ツ曾を書る處もあり。然れば此字、清濁に通はし用ひたるかとも思へど、記中にさる例もなく、又辭(テニヲハ)のゾをおきて、他(ホカ)に濁音に用たる處なければ、今は清音と定めつ。 そもゝゝ此ノ字、辭(テニヲハ)のゾにのみ濁音に用ひたること、猶よく考ふべし。 宗ノ字は、姓阿宗(アソ)宗賀(ソガ)のみなり。
此ノ中に、當ノ字は、當藝志美々(タギシミヽノ)命、また當藝斯(タギシ)、當藝野(タギヌ)、當岐麻(タギマ)などのみなり。 他ノ字は、地ノ名多他那美(タヽナミ)、下卷高津ノ宮ノ段ノ歌に他賀(タガ)、 誰(タガ)なり。これのみなり。 太ノ字は、下卷列木ノ宮ノ段に、品太(ホムダノ)天皇とあり。此ノ御名、餘(ホカ) は皆品陀とかけり。 又朝倉ノ宮ノ段ノ歌に、延佳本に太陀理(タヾリ)線柱なり と あるは、さかしらに改めたるものにしてひがごとなり。諸本みな本陀理(ホダリ)と あるぞよろしき。なほこの太陀理の事は、彼歌の下(トコロ)に委しく論ふ また中卷にも、阿太之別(アタノワケ)といふ姓あり。 其(ソ)は本(ホ)ノ字の誤リならむかの疑ヒあるなり。
此ノ中に、地ノ字は、神ノ名宇比地邇(ウヒヂニ)、 意富斗能地(オホトノヂ)のみなり。
此ノ中に、帝ノ字は、神ノ名布帝耳(フテミヽ)、 中卷に、佐夜藝帝(サヤギテ)とあるのみなり。 殿ノ字は、上卷に志殿(シデ)[垂(シデ)なり。 のみなり。
此ノ中に、等ノ字は、上卷に、袁等古(ヲトコ)また美古等(ミコト)、 下卷に等母邇(トモニ)、これらのみなり。 土ノ字は國ノ名土左のみなり。縢ノ字は神名淤縢山津見(オドヤマツミ)のみなり。 騰ノ字は曾富騰(ソホド)とあるのみなり。中卷に勝騰門比賣とあるは誤リなるべし。 さて此ノ縢騰の内一ツは一ツを誤れるにもあらむか。
此ノ中に、濃ノ字は、國ノ名美濃(ミヌ)のみなり。 凡て古書に、農濃などは、ヌの假字に用ひたり。ノの音にはあらず。 美濃も、ミノといふは、中古よりのことなり。 努ノ字は、中卷に、美努(ミヌノ)村とあるのみなり。
此ノ中に、尼ノ字は、上卷に、加尼(カネ)金なり。 また阿多尼都岐(アタネツキ)とあるのみなり。 禰ノ字は、宿禰(スクネ)、また輕嶋ノ宮ノ殿に沙禰王(サネノミコ)、こは彌ノ誤リ にもあらむか。 これのみなり。
此ノ中に、乃ノ字は、上卷に大斗乃辨(オホトノベノ)神、 下卷に余能那賀乃比登(ヨノナガノヒト)、又加流乃袁登賣(カルノヲトメ)、 又比志呂乃美夜(ヒシロノミヤ)、これらのみなり。
此ノ中に、卑ノ字は、天之菩卑(アメノホヒノ)命[此ノ御名、比(ヒ)ノ字をも書た り。のみなり。
此ノ中に、賦ノ字は、賦登麻和訶比賣(フトマワカヒメ)、又日子賦斗邇(ヒコフトニ ノ)命、又地ノ名伊賦夜坂(イフヤザカ)、波邇賦坂(ハニフザカ)、これらのみなり。 服ノ字は、地ノ名伊服岐(イブキ)のみなり。
此ノ中に、平ノ字は、地ノ名平群(ヘグリ)のみなり。さて幣ノ字は、弊ノ字に作(カ ケ)る處もあり。其(ソ)は誤リとすべし。其ノ説全(マタ)く上の碁と基との如し。 辨ノ字は弁とも作(カケ)る處あるは、同じことゝ心得て寫シ誤れるなり。 こは釋を尺、慧を惠と書ク類にて、畫の多き字をば、音の通ふ字の、畫少(スクナ)く 書易(カキヤス)きを借リて書ク例ありて、辨をもつねに弁と書ならへる故に、 たゞ同じことゝ心得たるものなり。別に此ノ字をも用ひたるにはあらず。 これは假字なれば、もとより別に弁ノ字とせむも、事もなけれど、なほ然にはあらじ。
此ノ中に、本ノ字は、上卷には一ツもなくして、中卷下卷に多く用ひたり。 菩ノ字は天之菩卑(アメノホヒノ)命、中卷に加牟菩岐(カムホギ)、これのみなり。 番ノ字は、番能邇々藝(ホノニニギノ)、又番登(ホト)[陰(ホト)なり。これのみなり。 蕃ノ字は、蕃登(ホト)[陰(ホト)なり。 のみなり。 番蕃の内、一ツは一ツの誤にもあるべし。 品ノ字は、中卷に、品牟智和氣(ホムチワケノ)命とあるのみなり。 同ジ御名を、下には本ノ字を書り。 そのほかは、ホムの二音にこれかれ用ひたり。
此ノ中に、彌ノ字は、神名彌都波能賣(ミツハノメ)、彌豆麻岐(ミヅマキ) また下卷高津ノ宮ノ段に意富岐彌(オホキミ)、此言、餘(ホカ)は美ノ字をかけり。 遠ツ飛鳥ノ宮ノ段に和賀多々彌(ワガタヽミ)、これらのみなり。 味ノ字は中卷に佐味那志爾(サミナシニ)、これ一ツなり。
此ノ中に、无ノ字は、國ノ名无邪志(ムザシ)のみなり。 武ノ字は、國ノ名相武(サガム)のみなり。 相摸と作(カ)ける本もあり。歌には牟ノ字を書り。
此ノ中に、54A9ノ字は、中卷輕嶋ノ宮ノ段ノ末、人ノ名當麻之54A9斐(タギマノメヒ)のみ なり。こは正しくは口芋(メ)と作(カク)字なり。
此ノ外に、下卷高津ノ宮ノ段ノ歌に、文ノ字一ツあれど、誤リなるべし。
此ノ中に、也ノ字は、上卷歌の結(トヂメ)に曾也(ゾヤ)と只一ツあるのみにて、 疑はしけれど、姑くあげつ。なほ其ノ歌の處に云べし。
此ノ中に、豫ノ字は、國ノ名伊豫(イヨ)、中卷下卷には、伊余とかけり。 又豫母都志許賣(ヨモツシコメ)のみなり。
此ノ中に、路ノ字は、上卷に、斯路岐(シロキ)二ツあり。 久路岐(クロキ)のみなり。 中卷下卷には、白黒(シロクロ)のロに、みな漏ノ字を用ひたり。 侶ノ字は、佐久々斯侶(サクヽシロ)のみなり。 盧ノ字は、意富牟盧夜(オホムロヤ)のみなり。 樓ノ字は、摩都樓波奴(マツロハヌ)とあるのみなり。 此ノ言今一ツあるには、漏ノ字をかけり。
此ノ中に、丸ノ字は、地ノ名丸邇(ワニ)のみなり。こは訓に非ず。音なり。
上件の外に、記 6C5C 游 劔 梯 之 天 未 末 且 徴 彼 衣 召 此 忌 計 酒 河 被 友 申 祀表 存 在 又、これらを假字に書る本(マキ)あり。みな寫し誤れるものなり。