2004.01.25更新

    草  枕    夏目漱石                          

  
              I


やまみち
山路を登りながら、かう考へた。
ち      かど
智に働けば角が立つ。情に棹さおさせば流される。意地を通せば窮屈だ。

兎角とかくに人の世は住みにくい。

 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても
                 え
住みにくいと悟つた時、詩が生れて、畫が出來る。

 人の世を作つたものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向ふ三軒両

隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作つた人の世が住みにくい

からとて、越す國はあるまい。あれば人でなしの國へ行く許りだ。人で

なしの國は人の世よりも猶住みにくからう。
                                くつ
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛
ろげ
容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。こゝに詩人と
                     くだ
いふ天職が出來て、こゝに畫家といふ使命が降る。あらゆる藝術の士は
                     たつ
人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。

 住みにくき世から、住みにくき煩ひを引き抜いて、難有い世界をまの

あたりに寫すのが詩である、畫である。あるは音樂と彫刻である。こま

かに云へば寫さないでもよい。只まのあたりに見れば、そこに詩も生き、
     ちやくさう                  たんせい  ぐわか
歌も湧く。着想を紙に落さぬとも珍鏘の音は胸裏に起る。丹青は畫架に
   とまつ
向つて塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。只おのが住む世を、

かく観じ得て、霊臺方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうらゝかに攻

め得れば足る。この故に無聲の詩人には一句なく、無色の畫家には尺絹

なきも、かく人世を規じ得るの點に於て、かく煩悩を解脱するの點に於

て、かく清浄界に出入し得るの點に於て、又この不同不二の乾坤を建立
               きはん さうとう
し得るの點に於て、我利私慾の羈絆を掃蕩するの點に於て、  千金の

子よりも、萬乗の君よりも、あらゆる俗界の寵兒よりも幸福である。

 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知つた。 二十五年

にして明暗は表裏の如く、日のあたる所には吃度影がさすと悟つた。三
  こんにち
十の今日はかう思ふて居る。  喜びの深きとき憂愈深く、楽みの大い

なる程苦しみも大きい。之を切り放さうとすると身が持てぬ。片付けや

うとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが殖えれば寐る間も心

配だらう。戀はうれしい、嬉しい戀が積もれば、戀をせぬ昔がかへつて

戀しかろ。閣僚の肩は數百萬人の足を支へて居る。脊中には重い天下が

おぶさつて居る。うまい物も食はねば惜しい。少し食へば飽き足らぬ。

存分食へばあとが不楡快だ。……
                   うそく            かくいし
 余の考がこゝ迄漂流して來た時に、余の右足は突然坐りのわるい角石
     そ
の端を踏み損くなつた。平衡を保つ為めに、すはやと前に飛び出した左

足が、仕損じの埋め合せをすると共に、余の腰は具合よく方三尺程な岩

の上に卸りた。肩にかけた繪の具箱が腋の下から躍り出した丈で、幸ひ

と何の事もなかつた。

 立ち上がる時に向ふを見ると、路から左の方にパケツを伏せた様な峯

が聳えて居る。杉か檜か分からないが根元から頂き迄悉く蒼黒い中に、
                     しか
山櫻が薄赤くだんだらに棚引いて、續ぎ目が確と見えぬ位靄が濃い。少

し手前に禿山が一つ、群をぬきんでゝ眉に逼せまる。禿げた側面は巨人の斧
                     うづめ    てつぺん
で割り去つたか、鋭どき平面をやけに谷の底に埋て居る。天邊に一本
                  はつきり
見えるのは赤松だらう。枝の間の空さへ判然して居る。行く手は二丁程
               けつと
で切れて居るが、高い所から赤い毛布が動いて來るのを見ると、登れば

あすこへ出るのだらう。路は頗る難義だ。

 土をならす丈なら左程手間も入るまいが、土の中には大きな石がある。

土は平らにしても石は平らにならぬ。石は切り砕いても、岩は始末がつ
              そばだ
かぬ。堀崩した土の上に悠然と峙つて、吾等の為めに道を譲る景色はな

い。向ふで聞かぬ上は乗り越すか、廻らなければならん。巌のない所で

さへ歩るきよくはない。左右が高くつて、中心が窪んで、丸で一間幅を
   く
三角に穿つて、其頂點が眞中を貫いてゐると評してもよい。路を行くと

云はんより川底を渉ると云ふ方が適當だ。固より急ぐ旅でないから、ぶ

らぶらと七曲りへかゝる。

 忽ち足の下で雲雀の聲がし出した。谷を見下したが、どこで鳴いてる

か影も形も見えぬ。只聲だけが明らかに聞える。せつせと忙しく、絶間

なく鳴いて居る。方幾里の空気が一面に蚤に刺されて居たゝまれない様

な気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の餘裕もない。のどかな春の日を

鳴き盡くし、鳴きあかし、又鳴き暮らさなければ気が済まんと見える。

其上どこ迄も登つて行く、いつ迄も登つて行く。雲雀は吃度雲の中で死

ぬに椙違ない。登り詰めた揚句は、流れて雲に入つて、漂ふて居るうち

に形は滑えてなくなつて、只聲丈が空の裡に残るのかも知れない。

 巌角を鋭どく廻つて、按摩なら眞逆檬に落つる所を、際どく右へ切れ

て、横に見下すと、茶の花が―面に見える。雲雀はあすこへ落ちるのか

と思つた。いゝや、あの黄金の原から飛び上がつてくるのかと思つた。

次には落ちる雲雀と、上る雲雀が十文字にすれ違ふのかと思つた。 最

後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦れ違ふときにも元気よく

鳴きつゞけるだらうと思つた。

 春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。

時には自分の魂の居所さへ忘れて正體なくなる。只菜の花を遠く望んだ

ときに眼が醒める。雲雀の聲を聞いたときに魂のありかゞ判然する。雲

省の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全體が鳴くのだ。魂の活動が聲に

あらはれたものゝうちで、あれ程元気のあるものはない。あゝ愉快だ。

かう思つて、かう愉快になるのが詩である。

 忽ちシェレーの雲雀の詩を思ひ出して、口のうちで覚えた所だけ暗誦

して見たが、覺えて居る所はニ三句しかなかつた。其二三句のなかに

こんなのがある。


   We look before and after,

     And pine for what is not:

   Our sincerest laughter

     With some pain is fraught;

   Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.


「前を見ては、後へを見ては、物欲しと、あこがるゝかなわれ。腹から

の、笑といへど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、

悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」

 成程いくら詩人が幸福でも、あの雲雀の様に思ひ切つて、 一心不乱

に、前後を忘却して、わが喜びを歌ふ譚には行くまい。西洋の詩は無論

の事、支那の詩にも、よく萬斛の愁などゝ云ふ字がある。詩人だから萬

斛で素人なら一合で濟むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦

労性で、几骨の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもおら

うが、無量の悲も多からう。そんならば詩人になるのも考へ物だ。

 しばらくは路が平で、右は雑木山、左は茶の花の見つゞけである。足

の下に時々蒲公英を踏みつける。鋸の様な葉が遠慮なく四方へのして眞

中に責色な珠を擁護して居る。柔の花に気をとられて、踏みつけたあと

で、気の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸

のなかに鎮座して居る。呑気なものだ。又考へをつゞける。

 詩人に憂はつきものかも知れないが、あの雲雀を聞く心持になれば徴

塵の苦もない。菜の花を見ても、只うれしくて胸が躍る許りだ。蒲公英

も其通り、櫻も  櫻はいつか見えなくなつた。

かう山の中へ來て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。

面白い丈で別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥れて、旨いも

のが食べられぬ位の事だらう。

 然し苦しみのないのは何故だらう。只此景色を一幅の畫として観、一

巻の詩として讀むからである。書であり詩である以上は地面を貰つて、

開拓する気にもならねば、鐡道をかけて一儲けする了見も起らぬ。只此

景色が−−腹の足しにもならぬ、月給の補ひにもならぬ此景色が景色と

してのみ、余が心を楽ませつゝあるから苦勞も心配も伴はぬのだらう。

自然の力は是に於て尊とい。

吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自

然である。

 戀はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、思君愛國も結構だらう。然し

自身が其局に當れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、繕

構な事にも、目は眩んで仕舞ふ。従つてどこに詩があるか自身には解し

かねる。

 これがわかる為めには、わかる丈の餘裕のある第三者の地位に立たね

ばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白

い。芝居を兄て面白い人も、小説を讃んで面白い人も、自己の利害は棚

へ上げて居る。見たり讃んだりする間丈は詩人である。

 それすら、普通の芝居や小説では人情を免かれぬ。苦しんだり、怒つ

たり、騷いだり、泣いたりする。見るものもいつか其中に同化して苦し

んだり、怒つたり、騷いだり、泣いたりする。取柄は利慾が交らぬと云

ふ點に存するかも知れぬが、交らぬ丈に其他の情緒は常よりは餘計に活

動するだらう。それが嫌だ。

 苦しんだり、怒つたり、騷いだり、泣いたりは人の世につきものだ。

余も三十年の間それを仕通して、飽々した。飽々した上に芝居や小説で

同じ刺激を繰り返しては大變だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を

鼓舞する様なものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れ

た心持ちになれる詩である。いくら傑作でも入情を離れた芝居はない、

理非を絶した小説は少からう。どこ迄も世間を出る事が出來ぬのが彼等

の特色である。ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから所謂詩

歌の 純粋なるものも此境を解脱する事を知らぬ。 どこ迄も同情だとか、

愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勸工場にあるものだけで用を

辧じて居る。いくら詩的になつても地面の上を馳けあるいて、銭の勘定を

忘れるひまがない。シェレーが雲雀を聞いて嘆息したのも無理はない。

 うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したのがある。採菊東籬下、悠

然見南山
。只それぎりの裏に暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てく

る。垣の向ふに隣りの娘が覗いてる譯でもなければ、南山に親友が奉職

して居る次第でもない。超然と出世間的に利害損得の汗を流し去つ

た心持ちになれる。独坐幽篁裏、弾琴復長嘯、深林人不知、明月來相

照
。只二十字のうちに優に別乾坤を建立して居る。此乾坤の功徳は「不

如歸」
や「金色夜叉」の功徳ではない。汽船、汽車、權利、義務、道徳、

禮義で疲れ果てた後、凡てを忘却してぐつすりと寐込む様な功徳である。

 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀に此出世間的の詩味は大切で

ある。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を讀む人もみんな、西洋人にか

ぶれて居るから、わざわざ呑気な扁舟を泛ぺて此桃源に溯るものはない

樣だ。余は固より詩人を職業にして居らんから、王維や淵明の境界を今

の世に布教して廣げやうと云ふ心掛も何もない。只自分にはかう云ふ感

興が演藝會よりも舞踏會よりも薬になる樣に思はれる。フアウストより

も、ハムレットよりも難有く考へられる。かうやつて、只一人繪の具箱

と三脚几を擔いで春の山路をのそのそあるくのも全く之が為めである。

淵明、王維の詩境を直接に自然から吸収して、すこしの間でも非人情の

天地に逍遥したいからの願。一つの酔興だ。

 勿論人間の一分子だから、いくら好きでも、非人情はさう長く績く譯

には行かぬ。淵明だつて年が年中南山を見詰めて居たのでもあるまいし、

王維も好んで竹藪の中に蚊帳を釣らずに寐た男でもなからう。矢張り餘

つた菊は花屋へ賣りこかして、生えた筍は八百屋へ拂ひ下げたものと

思ふ。かう云ふ余も其通り。いくら雲雀と菜の花が気に入つたつて、山

のなかへ野宿する程非人情が募つては居らん。こんな所でも人間に逢ふ。

じんじん端折りの頬冠りや、赤い腰巻の姉さんや、時には人間より顔の

長い馬に迄逢ふ。百萬本の檜に取り圍まれて、海面を抜く何百尺かの空

気を呑んだり吐いたりしても、人の臭ひは中々取れない。夫れ所か、山

を越えて落ちつく先の、今宵の宿は那古井の温泉場だ。

 唯、物は見樣でどうでもなる。レオナルド、ダ、ヰンチが弟子に告げ
 ことば
た言に、あの鐘の一音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれると

ある。一人の男、一人の女も見樣次第で如何樣とも見立てがつく。どう

せ非人情をしに出掛けた旅だから、其積りで人間を見たら、浮世小路の

何軒目に狭苦しく暮した時とは違ふだらう。よし全く人情を離れる事が

出來んでも、責めて御能拜見の時位は淡い心持ちにはなれさうなものだ。

能にも人情はある。七騎落でも、墨田川でも泣かぬとは保證が出來ん。

然しあれは情三分藝七分で見せるわざだ。我等が能から享ける難有味は

下界の人情をよく其住に寫す手際から出てくるのではない。其借の上へ

藝術といふ着物を何枚も着せて、世の中にあるまじき悠長な振舞をする

からである。

 しばらく此旅中に起る出來事と、旅中に出逢ふ人間を能の仕組と能役

者の所作に見立てたらどうだらう。丸で人情を棄てる譯には行くまいが、

根が詩的に出來た旅だから、非人情のやり序でに、可成節倹してそこ迄

は漕ぎ付けたいものだ。南山や幽篁とは性の違つたものに相違ないし、

又雲雀や菜の花と一所にする事も出來まいが、可成之に近づけて、近づ

け得る限りは同じ觀察點から人間を視てみたい。芭蕉と云ふ男は枕元へ

馬が尿するのをさへ雅な事と見立てゝ發句にした。

余も是から逢ふ人物を  百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも

婆さんも  悉く大自然の點景として描き出されたものと仮定して取こ

なして見樣。尤も書中の人物と違つて、彼等はおのがじゝ勝手な眞似を

するだらう。然し普通の小説家の樣に其勝手な眞似の根本を探ぐつて、

心理作用に立ち入つたり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。動い

ても構はない。畫中の人間が動くと見れば差し支ない。畫中の人物はど

う動いても平面以外に出られるものでない。平面以外に飛び出して、立

方的に働くと思へばこそ、此方と衝突したり、利害の交渉が起つたりし

て面倒になる。面倒になればなる程美的に見て居る譯に行かなくなる。

是から逢ふ人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電氣が無暗

に双方で起らない樣にする。さうすれば相手がいくら働いても、こちら

の懐には容易に飛び込めない譯だから、つまりは畫の前へ立つて、畫中

の人物が畫面の中をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ譯になる。

間三尺も隔てゝ居れば落ち付いて見られる。あぶな氣なしに見られる。

言葉を換へて云へば、利害に氣を奪はれないから、全カを拳げて彼等の

動作を藝術の方面から觀察する事が出來る。餘念もなく美か美でないか

と璧識する事が出來る。

 こゝ迄決心をした時、空があやしくなつて來た。煮え切れない雲が、

頭の上へ靠垂れ懸つて居たと思つたが、いつの間にか、崩れ出して、

四方は只雲の海かと怪しまれる中から、しとしとと春の雨が降り出した。

菜の花は疾くに通り過して、今は山と山の間を行くのだが、雨の糸が濃

かで殆んど霧を欺く位だから、隔たりはどれ程かわからぬ。時々風が來

て、高い雲を吹き拂ふとき、薄黒い山の脊が右手に見える事がある。何

でも谷一つ隔てゝ向ふが脈の走つて居る所らしい。左はすぐ山の裾と見

える。深く罩める雨の奥から松らしいものが、ちよくちよく顔を出す。出

すかと思ふと、隠れる。雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、

何となく不思議な心持ちだ。

 路は存外廣くなつて、且つ平だから、あるくに骨は折れんが、雨具の

用意がないので急ぐ。帽子から雨垂れがぽたりぽたりと落つる頃、五六

間先きから、鈴の音がして、黒い中から、馬子がふうとあらはれた。

「こゝらに休む所はないかね」

「もう十五丁行くと茶屋がありますよ。大分濡れたね」

 まだ十五丁かと、振り向いて居るうちに、馬子の姿は影畫の樣に雨に

つゝまれて、又ふうと消えた。

 糠の樣に見えた粒は次第に太く長くなつて、今は一筋毎に風に捲かれ

る樣迄が目に入る。羽織はとくに濡れ盡して肌着に浸み込んだ水が、身

體の温度で生暖く感ぜられる。氣持がわるいから、帽を傾けて、すたす

た歩行く。

 茫々たる薄墨色の世界を、幾條の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶる

に濡れて行くわれを、われならぬ人の姿と思へば、詩にもなる、句にも

咏まれる。有體なる己れを忘れ盡して純客觀に眼をつくる時、始めてわ

れは畫中の人物として、自然の景物と美しぎ調和を保つ。只降る雨の心

苦しくて、踏む足の疲れたるを氣に掛ける瞬間に、われは既に詩中の人

にもあらず、畫裡の人にもあらず。依然として市井の一豎子に過ぎぬ。

雲姻飛動の趣も眼に入らぬ。落花啼烏の情けも心に浮ばぬ。蕭々として

獨り春山を行く吾の、いかに美しきかは猶更に解せぬ。初めは信を傾け

て歩行た。後には唯足の甲のみを見詰めてあるいた。終りには肩をすぼ

めて、恐る恐る歩行た。雨は満目の樹梢を揺かして四方より孤客に逼る。

非人情がちと強過ぎた樣だ。


             II


「おい」と聲を掛けたが返事がない。............................................





            VII


   ..........................................





............................................................ 只此靄に、春宵の二字を

冠したるとき、始めて妥當なるを覺える。

 余は湯槽のふちに仰向の頭を支へて、透き徹る湯のなかの軽き身體を、

出來る丈抵抗力なきあたりへ漂はして見た。ふわり、ふわり、と魂がく

らげの樣に浮いて居る。世の中もこんな氣になれば楽なものだ。分別の

錠前を開けて、執着の栓張をはづす。どうともせよと、温泉のなかで、

温泉と同化して仕舞ふ。流れるもの程生きるに苦は入らぬ。流れるものゝ

なかに、魂迄流して居れば、基督の御弟子となつたより難有い。成程此

調子で考へると、土左衛門は風流である。スヰンパーンの何とか云ふ詩

に、女が水の底で往生して嬉しがつて居る感じを書いてあつたと思ふ。

余が平生から苦にして据た、ミレーのオフェリヤも、かう觀察すると大

分美しくなる。何であんな不愉快な所を擇んだものかと今迄不審に思つ

て居たが、あれは矢張り畫になるのだ。水に浮んだ儘、或は水に沈んだ

儘、或は沈んだり浮んだりした儘、只其儘の姿で苦なしに流れる有樣は

美的に相違ない。夫で雨岸に色々な草花をあしらつて、水の色と流れて

行く入の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとつたら、吃度畫に

なるに相違ない。然し流れて行く人の表情が、丸で平和では殆んど神話

か比喩になつてしまふ。痙攣的な苦悶はもとより、全幅の精神をうち壊

はすが、全然色氣のない平氣な顔では人情が寫らない。どんな顔をかい

たら成功するだらう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の

精神は余と同じ所に存するか疑はしい。ミレーはミレー、余は余である

から、余は余の興味を以て、一つ風流な土左衙門をかいて見たい。然し

思ふ樣な顔はさう容易く心に浮んで來さうもない。

 湯のなかに浮いた儘、今度は土左衛門の賛を作つて見る。

   雨が降つたら濡れるだろ。

   霜が下りたら冷たかろ。

   土の下では暗からう。

   浮かば波の上、

   沈まば波の底、

   春の水なら苦はなかろ。

と日のうちで小聲に誦しつゝ漫然と浮いて居ると、何所かで弾く三味線

の音が聞える。美術家だのにと云はれると恐縮するが、實の所、余が此

樂器に於る智識は頗る怪しいもので二が上がらうが、三が下がらうが、

耳には餘り影響を受けた試しがない。しかし、静かな春の夜に、雨さへ

興を添へる、山里の湯壷の中で、魂迄春の温泉に浮かしながら、遠くの

三味を無責任に聞くのは甚だ嬉しい。遠いから何を唄つて、何を弾いて

居るか無論わからない。そこに何だか趣がある。音色の落ち付いて居る

所から察すると、上方の検校さんの地唄にでも聴かれさうな太棹かとも

思ふ。

 小供の時分、門前に萬屋と云ふ酒屋がおつて、そこにお倉さんと云ふ

娘が居た。此お倉さんが、静かな春の畫過ぎになると、必ず長唄の御浚

ひをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪餘りを前に控へ

て、三本の松が、客間の東側に並んで届る。此松は周り一尺もある大き

な樹で、面白い事に、三本寄つて、始めて趣のある恰好を形づくつてゐ

た。...........................................