教養はまわりくどいもんだ

          田辺聖子


 いつだったか、クリントン大統領が示し た江戸時代の歌人、橘曙覧(たちばなのあけみ) の歌を、大方の日本人は知らなかった。  テレピ番組でそのことが話題になったと き、数人のコメンテイターもみな、曙覧を 知らない、といっていたと−− (私はそのテレビを見なかったが)これは 新聞の投書にあった。  投書者は六十代の婦人だ。旧制高等女学 校で曙覧を習ったが、昔の教育を受けた人 ならみな知っていたものを、なぜ現代の人 は知らないのだろうと不思議そうに書いて いた。  実は私も彼女と同じ気持である。アメリ カ人がいまごろ曙覧をもち出すのも興をお ぼえたが、日本人が知らない、というのは 淋しかった。曙覧は国学者で国粋主義だっ たし、歌も万葉調だから、戦後忘れられて しまったのかもしれないが、単なるますら おぷりの、志士気取りではない。もっと自 由で清新なうたいぶりの詩人である。生涯 清貧に甘んじて、妻や子を愛した。           めこ 「たのしみは妻子むつまじくうちつどひ頭 ならべて物をくふ時」「たのしみは銭なく なりてわびをるに人の来りて銭くれし時」  などいま読んでもなかなか佳い歌だ。私 は曙覧が嫌いではないから、人みな知って いるとばかり思いこんでいた。  その後、気をつけてみていると、私らの 世代が常識と思いこんでいた古典教養が、 いまの中年にもすでにかなり欠け落ちてい るらしくみえる。いや、私ごときの古典知 識や教養などタカが知れているのである が、それでも日本人が日本の古典にあまり 冷淡であると淋しい。  もっとも私だとて、政治経済、科学、ス ポーツ、それらに冷淡で無残なほど無智で あるから、現代人としては欠陥人間だとい われると一言もないわけだが、しかしそれ はそれとして、日本人の存在証明として、 日本古典にもっとゆとりある愛着をもって ほしいと思うものだ。  それに関連して心配なのは、高校の授 業、ならびに大学入試から漢文が消えてゆ くという傾向である。若者が漢字を知らな い、書けない、といわれてから久しいが、 漢文の勉強がなおざりになっては古典教育 といえない。
若者人口が減りつつあるので私立大学あ たりでは「受験生の負担軽減」を口実に、 漢文を入試からはずしているらしいが、こ れは学生あつめのための媚びであろう。  ……と、こういうと、学校経営の当事者 は、そんなノンキなことをいうてられまへ ん、と反駁されるであろうし、何でも昔の やりかたがよいというのは老人世代の懐古 趣味や、と—言でしりぞけられるかもしれ ない。  しかし漢文や漢詩を学ばなければ日本の 古典は咀嚼しきれない。かつ、漢文学の簡 潔犀利な口吻、ゆたかな詩精神を知らない で生涯を過すことは大きい損失である。 −−かく申す私だって、床の間の掛軸が、 よく知っている詩ならともかく、はじめて のものにぶつかると、読めたためしがない のだが、中国詩人選などいつも座右に置い てたのしんでいる。  人の生涯は長いから、どんなものにたの しみを見出すか、将来のことはわからな い。いまの若い人たちだって、長く生きて いればずっと先になって日本古典のよさ を、漢文学のすばらしさを、思い知るかも しれないのだ。  そのいとみちをつけてやる−−三味線で はないが、ほんの手はじめでも馴れさせて おいてやれば、と思うのである。  受験生がいやがるから入試から除外す る、入試に出ないから高校の時間配分を減 らす、ということになれば、教養の土台は 全く綬んで、入試テクばかり独りあるきす ることになってしまう。  しかし、教養というものは、まわりくど いものなのだ。いつ役にたつかわからな い。そういうものの積み重ねで、気の遠く なるほどの長い時間と人生の滴りが、人間 の裡なる壷に落ち、貯められてゆくもの だ。それを教養というのだ。外国語みたい に目にみえて進歩する、というものではな いから速効性のコーヤクばかり貼りたがる 現代の若者にはまどろこしいであろうが、 オトナまで彼らに媚びてはしょうがない。  もっと気宇壮大になってほしいなあ。怪 しげな邪宗に集うエリート青年たちの、ツ ルンとした顔を見ていたら、こりやー古典 教養には縁のない顔だなあ、とつくづく思 ってしまった。じっくり「源氏物語」や 「平家物語」をたのしみ、李白杜甫の詩に 共感する時間、まわり道をする時間をもつ 人生であれば、もっと何かをつかんでいた ろうにと、私は空虚な詭弁をぺらぺらし やべっている青年の顔をみながら痛感し た。  まわりくどい教養を若者たちに持たせて ほしい。入試にふりまわされないでほし い。
(文芸春秋1000号より)