書紀の論ひ[アゲツラヒ] 八葉〜

八葉

今古事記を解とて、書紀を論うはいかにと云に、古昔より世間[よのなか]おしなべて、只此書紀をのみ、人たふとび用ひて、世々の物知り人も是にいたく心をくだきつつ、言痛きまでその神代巻には、注釋にども多かるに、此記をばただなほざりに思ひ過ぐして、心を用ひむ物としも思ひたたず、

十四葉FF5E

そはもとかしこき人の、よく考へて作リ出デたることにて、十に六 ツ七ツは当れるが如くなる故に、世々の人皆これを信用(ウケモチ ヒ)て、疑ふことなけれども、其陰陽は、又いかなる理によりて陰 陽なるぞといはむに、其理は知ルことあたはず。 太極無極などいふこともあれども、それはいかなる理にて太極無極 なるぞといはむに、終(ツヒ)にその元(モト)の理は、知リがた きに落(オツ)めれば、誠には陰陽も太極無極も、何(ナニ)の益 もなきいたづら説(ゴト)にて、ただいささか人の智の測知(ハカ リシル)べき限リの小(チヒサキ)理リに、さまざまと名を設けた るのみにぞ有ける。 抑天照大御神は、日ノ神に坐(マシ)して女神、月夜見ノ命は、月 ノ神にして男神に坐(マシ)ます。 是レを以て、陰陽といふことの、まことの理にかなはず、古ヘの伝 ヘに背けることをさとるべし。 然るを猶(ナホ)彼ノ理に泥(ナヅ)み惑ひて、返りて此レをさへ 其理にかなへむと、強(シヒ)て説曲(トキマグ)るなどは、いふ にも足(タラ)ぬことなりかし。

十五葉

又神武ノ御巻に、天皇の大御言に、『戦勝テ驕ル無キハ、良将ノ行 也(原文「戦勝而無驕者、良将之行也」)』とある、大方如比(カ クノゴト)くさかしく漢めきたる語どもは、皆かざりと聞ゆ。 凡て言語は、其ノ世々のふりふり有て、人のしわざ心ばへと、相協 (アヒカナ)へる物なるに、書紀の人の言語は、上ツ代のありさ ま、人の事態(シワザ)心ばへにかなはざることの多かるは、漢文 のかざりの過(スギ)たる故なり。 十八葉FF5E又継体天皇の、未だ越前(コシノミチノクニ)の三国(ミクニ)に 大坐々(オホマシマシ)しを、臣連等(オミムラジタチ)相議(ア ヒハカリ)て、迎ヘ奉リて、天津日嗣所看(シロシメサ)しめむと せしを、謝(イナ)び賜へる處に、『大男迹(オホヲトノ)天皇、 西に向て讓る者三(ミタビ)、南に向て讓る者再(フタタビ)』と ある、そのかみかかる事(ワザ)あるべくもあらず。 此ノ前後の文は、すべて漢籍(カラブミ)にあるを、そのまゝに取 (トラ)れたるなり。 抑かく人の事態(シワザ)まで造りかざりて、漢めかされたるはい かにぞや。又綏靖天皇元年、『春正月壬申朔己卯云々、皇后を尊て皇大后と曰 (いふ)【尊皇后曰皇大后】』とあるたぐひ、 【此レより次の御代 御代も、みな此例に記されたり。】上ツ代のさまにはあらず。 いかにといふに、まづ上ツ代には、大后(オホギサキ)とは、当代 (ソノミヨ)の嫡后を申し、大御母(オホミハハ)命をば、大御祖 (オホミオヤ)と申せばなり。【此事、中巻白橿原ノ宮ノ段に委く いふべし。古ヘによらば、皇后を意富岐佐伎(オホギサキ)、皇大 后を意富美意夜(オホミオヤ)と訓べし。皇太后を意富岐佐伎(オ ホギサキ)と訓てはかなはず。】 さて皇后(オホギサキ)を、其ノ御子の御世に至リて、改めて際 (キハ)やかに皇大后(オホミオヤ)と御號(ミナ)づけ奉り賜は むことも、上ツ代のさまには非ず。 大御母命は、元より大御親(オホミヤ)に坐(マナ)ばなり。【上 ツ代には、語をおきて、文字はなければ、外に皇大后と申すべき御 號(ミナ)はなきをや。】 凡てかゝる御號(ミナ)を、きはやかに改めらるゝなどは、もと漢 (カラ)国の事なり。 且(ソノウヘ)某(ソノ)年月日と、月日まで記されたるは、まし て漢(カラ)なり。すべて上ツ代の事に月日をいへるは、猶(ナホ)別に論(アゲツラヒ)あり。 抑書紀の論ふべきことゞもは、なほ種々(クサグサ)多かれども、 今はた漢籍意(カラブミゴコロ)の潤色文(カザリコトバ)の、古 学(イニシヘマナビ)の害(サマタゲ)となりぬべきかぎりの言 (コト)を、これかれ引出て、辨へ論へるなり。 此同類(コノオナジタグヒ)の言は、みな准(ナズラ)へてさとる べし。 すべて漢意(カラゴコロ)の説(コト)は、理(コトワリ)深げに て、人の心に入リやすく、惑ひやすき物なれば、彼ノ紀を看(ミ) む人、つねに此意をわすれそゆめ。