[がまんの3ヶ月 /(続き)] [自己回復トレーニング/(続き)]
[ガンと向き合うピアニスト/(続き)] [情報のきしみ(本文)(出版物に続く)]
楽譜を読み取るように情報を(乳がん、それ以外にしても)読むと、
私にとっては疑問点がいっぱい出てくる。
それは、情報が全体の
ある部分だけをピックアップ(?)して載せているからかもしれない。
すると、ピックアップする人が、どのくらいの知識をもって、それに携わったか?
ということが(情報としての意味に)大きく影響してくるだろう。
医者が(専門の人は全体を知った上で作るから)
『このくらいのことカットしてもいいだろう』と
かい摘まんだ情報が流されると
患者(何も知らないと言う人)には違った意味に取れてしまったり、
また全然解らなかったりする事になる。
またそこに専門の人の感情が入ってしまうと、
一般の人にとっては―― 極端に言えば ――、“ゆがんだ”、
または“傾いた”形での情報となってしまうことが往々にしてある。
音楽家は、どんなに感情を入れても楽譜に書かれている音、フレーズ等は、
一応全部弾いたうえに、自分の感情や自分の哲学をのせる。
情報の中では、この書かれている“ある音”“ある記号”を
わざと演奏しない形を取って表現している事があるように思える。
色々な考えを持つ専門家が居るのは当たり前である。
ある人が“白”ある人は“黒”別な人は“グレー”と言う。
これは当然なことである。
このように、色々な角度・視点で物を考え、観るのは悪いことではない。
むしろ良いことだと思う。が、それは同じ土俵の上に乗って居て
初めて認められる“白”であり“黒”であり“グレー”である。
根本的“基準”や、根本的“ライティング”まで変えてしまっては、
(土俵を広くしてしまったり、半分隠してしまったり)情報が混乱してしまう。
受け取る側は、イビツな物を見せられ、ともするとデフォルメされた所だけを
見せられてしまうかもしれない。(それを狙っている情報も有るかもしれないが)
特に病気で困惑している時に目にするものは
思い込み(思い込まされて)読み取ってしまう危険性が高い。
でも、もしかしたらその後ろに隠されたところが
非常に重要なカギとなっていることも有るのでないか。
公共性の高い情報は、感情的意見を立証した形のものではなく、
きちんとした立証の上に成り立った意見を、客観的に載せて欲しいと思う。
楽譜に書かれた音は、一つとして落とすことなく演奏して欲しいし、
その上で、より優れたものを聴きたい。
情報も同じであって欲しい。
そこで初めて、その人なりに正しいと言える情報が、
それぞれの感性・思考で読み取り、理解し、判断できる
と言う状態になるのではないだろうか?
| 前の頁へ⇒ 戻る |
| 心と体へ⇒ 戻る |
| ホームへ⇒ 戻る |
|
『情報のきしみ』の本文は出版物の方に続きます。 ...................ガンと向き合うピアニストより
|