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| 印 象 派 概 要 | 印象派音楽 | 作曲家 | ドビュッシー | ラヴェル | サティー | |||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 六人組 | |||||||
| ラファエル前派の影響 | 画家 | デュレイ | オネゲル | |||||
| 象徴主義の影響 | 作家 | ミロー | ミヨー | |||||
| オーリック | タイユフェール | |||||||
| 国 別 | 新ロマン主義 | 新古典主義 | 印象派以前 | ||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 概 要 | |||||||
| 作 曲 家 | |||||||
| 近代音楽 | 近代音楽の特質 | ||||||
| 多調性 | 無調性 | ||||||
この運動の主唱者はドビュッシーであり、当時この楽派は印象派と
よばれた。その時期は、彼がマラルメやヴェルレーヌとの交友がはじま
った1890年から彼の病死までの二十数年間と見ることができる。
印象派音楽が短期間に限られたのは、その当時のあらゆる作曲家に影響
して、新ロマン派、新古典派の新しい分野が作られるようになり、印象
派という特定の性格が失われたことによる。これはドビュッシーの技法
には、形式的発展性がなかったからでもある。
「展開するのは、語るものが、もうないからだ」(ドビュッシー)
ドイツ古典派、ドイツ・ロマン派は、七音音階による調性、三度和声を
基調としてきたのであるが、ドビュッシーにいたって、この金科玉条が
破られ、ピアノ鍵盤の上に作られる、あらゆる和音構成が試みられた。
歴史学者は、これを「近代音楽」への転機としている。
近代音楽(modern music)は、音楽史では現代音楽(contemporaly
music)と区別される。
ともかくも、印象派音楽の出現によつて、バッハ、ベートーヴェン以来の
音楽の様相は一変して、「近代音楽」の時代にはいった。
2 印象主義(Impressionisme)
Claude Monet「印象 "日の出"」
この言葉はフランスの絵画運動の用語であった。
即ち、マネ(E.Manet,1832〜83)モネ(C. Monet, 1840〜1926)らの外光派
に与えられたもので、1860〜82頃に現われた絵画技法である。
印象とは外界の模写でなく、一度心情に刺戟を与えた内的の印象を、
主観的に表現するものである。これはミレーやコローの写実派への反抗
で、固有色を、プリズム的原色を主体とした色調の配合によって、色感
的にボリュームを得ようというものであった。 またこの運動と同じ
考えによって、 「芸術のための芸術」のモットーをあげたマラルメ
(Mallarme,1842〜98)、
ヴェルレーヌ(Verlaine, 1844〜96)
ら
の詩人による象徴主義(Symbolism)が提唱されて、
マラルメを中心とした「火曜会」が作られ、これらの
画家、文芸家と共にドビュッシーもそのメンバーに加
わっていた。アナトール・フランス(AnatoleFrance, 18
44〜1924)は象徴派の最大の文学者であった。
そのような思想的、技法的結果としてのドビュツシー
の音楽は、絵画の光線と色彩感を音楽に導入し、自然
主義、現実主義的なものを排して、象徴的な、幻想的
な主観描写をねらったものであった。
(Verlaine,1844〜96)
3 印象派音楽の特質
従来の音楽は、一定の調性のもとに、主題の発展と、その解決終止が
中心となる構造を 持ち、その発展も、おのずから機能的転調を伴って、
水平線的に構成されていた。従って、その鑑賞も、合理的な完成に向け
られたが、印象派音楽では、構成の理智的探究よりも、直観的零囲気に
突入することが、至上条件であり、したがって、官能的な音感覚に、直
接に訴えることが要求された。その結果として、次のように、あらゆる
面で、従来の理論が破壊された。
1 旋律
2 音階と旋律
3 調性
4 機能和声
5 音色効果
4 印象派の人たち
以上のような画期的改革は、ドビュッシーによってなされたが、これら
の技法は、部分的にはすでに、ロマン派の作家にも使用されていた。
しかも、音組織の再編成に対しては、素人作曲家であったムソルグスキー
の、主観的な技法にも暗示を受けたといわれる。
こうした反ロマン的技法は、たちまち若い作曲者を刺戟し、ラヴェルは、
さらにこれを追及して新古典主義に進み、デュカ、ルーセルなども、ドビ
ュッシーに同調し、以後フランス作曲家プーランク、オネゲルにもその影
響が認められる。
なおフランス印象派は、スペインのアルベニス、ファリァ、イギリスの
スコット、ディーリアス、イタリアのレスピーギ、その他、ブゾーニ派の
新古典派を主張する人々でも、ドビュッシーの影響を受けないものは殆ど
いないということができる。
(2) ド ビ ユ ッ シ ー

クロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy ,1862 〜1918)
彼は久しい間、異端者として見られていたが、現代音楽が体系を整えてくるに
従って、その根元はドビュッシーにあることが確認されてから、彼の音楽史上
の地位は、非常に大きいものとなった。印象派という言葉は、彼ひとりのもの
となってしまった感があるがその音楽技法は現代音楽に引つがれて、今日に生
きている。
1 ドビュッシーの生涯
彼は1862年、8月22日。パリー郊外のサン=ジェルマン=アンレの雑賃商の
子として生れた。先祖はブルゴーニュの農民出で、教養のある家庭ではなか
った。彼が生れて2年後、父はパリーに出て店員として働いていた。
幼少時代のことは、よく知られていないが、蝶の採集などをして自然に親し
んでいたという。
A 修業時代(1862〜90)
7歳の時、はじめてピアノを学び、1871年(九歳)から3年間、かつて
ショパンの門下と自称するモーテ・ド・フルールヴィユ夫人(Mme Maute
de Fleurville)(詩人ヴェルレーヌの義母)について本格的レッスンを受け
(稽古は、ヴェルレーヌ夫妻と一緒に住んでいたアパルトマンで行われた。
この家にはアルテュール・ランボォが客としてしばしば訪れている)
1872年10月、パリー国立音楽院に入学することができた。
ここではピアノをマルモンテル(Antoine Marmontel,1816〜93)に、ソル
フェージュをラヴィニャック(Albert Lavignac, 1846〜1916)に、のちに
和声学をデュラン(Auguste Durand, 1830〜1909)に、作曲法をギロー(Ernest
Guiraud, 1837〜92)に師事した。
中でもラヴィニヤックとギローは、彼の天分を支持してくれたようである。
素晴らしい伝統を持つ音楽学校に入ったが誰も彼にフランス語の文法や
綴字法を教えなかった。
1883年、ローマ大賞に応募したが、第2賞第1席。84年、輝くローマ大賞を
得た。 入賞曲はカンタータ「放蕩児」(L'Enfant Prodigue)で、翌年ローマ
に出発した。留学中は社交性に欠けている彼は、常に孤独で、3ヶ年の期
間を一年早く帰国した。
しかしこの間に、パレストリーナやラッソのミサを聴くことができ、
レオンカヴァルロ、ヴェルディとも会い、さらにズガンバーティ家で、
リストとの二重奏を聴くことができたなどのプラスがあった。
パリーの修業中のドビュッシーは、経済的に恵まれなかった。
マルモンテルの推薦で、かってチャイコフスキーの後援者であつたフォン・
メック夫人の子供家庭教師となり、1880、1881の2年間、その家族とスイス、
イタリアに旅行したり、ロシアまでも見学することができた。
1882年ウィーンで初めてワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を聴いた
らしい。その後も声楽教師の伴奏を手伝い、その収入で書籍や絵を購入し、
教養の補強に努めた。
1884年には、教養ある建築技師ヴァニエ家に出入するようになり、そこ
の蔵書から多くのものを吸収することができた。
さて留学作品として提出されたものは四曲で、「春」と「ズュレイマ」
は草稿だけであり、ロゼッテイの抒惰詩による合唱曲「選ばれた乙女」
(La Damoisselle elue)と、ピアノと管弦楽のための「幻想曲」は、パリー
で作曲されたものであった。
これらの作品は、ヴァーグナトやマスネーの影響を多分に受けてはいた
が、部分的に独自な個性を見せていた。(「選ぱれたる乙女」の冒頭には
五度の並行が大胆に使用された)
1888、1889年には、バイロイトで「パルジファル」「トリスタン」をきき、
その自由奔放な和声法にうたれ、ロシア旅行ではムソルグスキーの「ボリス」
で音楽には法則というものが存立しない、耳だけがその審判者であることを
知った。
さらに彼の創作意欲を誘ったものは、1889年のパリー万国博覧会であり、
極東からの音楽舞踊団(日本からは川上貞奴、音二郎一座が参加)の、異国
的音楽に深く感動した。東洋的簡素幽玄な表現に、ヨーロッパ的な機能
和声、管弦楽法の過重、導旋律の不合理をさとり、ヴァーグナーを抹殺して、
新しい音楽美の創造を決意した。
ドビュッシーの旋律の中に、日本の旋律の断片がのぞいたり、六全音音階
の意想(ほぼ七平均律に近い半音をもたない音階)はタイ国のものであり、
ジヤヴァのガムランの影響をも見せ、日本の笙の四度和声なども、この時に
得たものであろう。
1881年12月頃からキャバレー「黒猫」に夜な夜な足を運び始め、あれ
これ歴訪範囲を広げていくうちにマラルメの火曜會にたどり着く。
1890年には、マラルメの火曜会に、唯一人の音楽家として参加した。
この頃、エリック・サティとも知り合い、彼の作曲は急カ−ブを描いて新し
い道を進んだ。 つまりドビュッシーの印象派作品というのは、これ以後に
属するものである。
B 印象派時代 (1891〜1918)
彼はパリーに居をすえて、野心的作品を送りだした。
まずそのスタートには次のような歌曲集が目立つ。
ヴェルレーヌの詩による
「三つの旋律」(海は美し、角笛の音はかなし、垣のならび)(1891)
同人の詩による「なまめかしき宴」(Fetes galantes)第1集(1892)第2集(1904)
ドビュッシー自身の詩による「抒情的散文」(Proses lyriques)(1893)
ルイスの詩「ビリティスの歌」(Chanson de Bilitis)(1897)
さらに重要なものは「弦楽四重奏曲」(1893)であり、次に、彼の声望を
絶対のものとしたのは、マラルメの詩による「牧神の午後への前奏曲」
(Prelude a l'apre-midi d'un Faune)(1894)であった。
天才バレリーナ、ニジンスキーが後に演じた「牧神」
これは1894年12月22日、国民音楽協会で初演され、作詩者の激賞をえた。
彼は、歌劇においてもヴァーグナーに対決しようと、 べルギーの文豪、
メーテルリンクの「ペレアスとメリザンド」(Pelleas et Melisande)と
取り組んでいた。
1899年、ドレスメーカーのロザリー・リリー(Rosalie Lili Texier)と結婚
したが、家計を補うため1901年「ルヴュー・ブランシュ」に音楽評論の
筆を執ったりした。
やがて「ペレアス」が完成し、1902年4月30日、メッサージェ指揮に
よって、パリー、オペラコックで初演された。 これは人形劇の為に
書かれた神秘劇で、王子ゴローが森で会ったメリザンドと結婚するが、
メリザンドはゴローの弟、ペレアスとも近づくことから、ゴローの嫉
妬が悲劇を起こすのである。 ともかくもこの歌劇は、ヴァーグナー
以後の、20世紀の最大傑作といわれた。
1903年、フランス政府はレジョン・ドヌール勲章を授け、その名誉を
たたえた。 翌年、ロザリーと離婚。銀行家の妻であったエンマ夫人
(Mme Emma Bordac)と恋に陥ち、1905年結婚した。彼女は美しい、しか
も富裕な声楽家であった。この年エンマに子ができたので、そのよろこ
びから、ピアノ曲「子供の領分」(Children's Corner)を作つた。
その後、多くのピアノ曲、歌曲、その他を作曲したが、1909年ごろから、
癌(がん)の症状が表われ、それに1914年、第一次世界大戦には心労が
多く、愛国の至情を二台のピアノの為の「白と黒で」(En blanc et noir)(1915)
「家なき児らのクリスマス」(Noel des enfants qui n'ont plus de
maisons)(1915)を作って寄せていたが、その後、戦争悪化の中に1918年
3月25日、パリーに永眠した。
2 ドビュッシーの作風と作品
彼の作風は印象派そのものであるから、前条にすでに尽している。 今
世紀の初頭には一般に理解されなかつた彼の作風も、その後の進歩的な楽
風が現われたので、むしろ古典にすら思われるようになったほどに、その
存在が肯定され、同時に、バロック音楽時代から累積されて来た音楽理論
に、完全屈折を与えたという事実は、音楽史上の新紀元であることが、次
第に認識されてきた。
代表的作品には、
歌 劇 「ぺレアスとメリザンド」
バレー音楽 「遊戯」(Jeux)(1913)(ニジンスキーのために作曲)
管弦楽曲 「春」、「牧神の午後への前奏曲」
三部作の「海」(1905)「映像」(Image)
室内楽曲 「弦楽四重奏曲」
「チェロ・ピアノ」
「フルート・ヴィオラ・ハープ」
「ヴァイオリン・ピアノ」
などのソナタがある。
ピアノ曲 「ベルガマスク組曲」(Suite Bergamasque)(1905)
「版画」(Estamps)(1903)
「歓喜の島」(L'Isle Joyeuse)(1904)
「影像」第一集(1905)、第二集(1907)
「子供の領分」、「前奏曲」第一集、第二集(1910〜13)
「練習曲集」第一巻、第二巻(24曲)(1915)
その他合唱曲では「放蕩児」「選ばれた少女」他、
歌曲には珠玉のような歌が多く残されている。主なる作詞者は、
ヴェルレーヌ、ミュッセ、マラルメ、ボードレール、
ルイス、ヴィヨン、レルミート等である。
Debussy Works List
(3)ラヴェル
モーリス・ラヴェル(Maurice Joseph Ravel,1875〜1937)は、エリック・
サティーとドビユッシーに加えて、当時のフランスにおける三人の異端
作曲家として、正統派からは白眼視されていた一人である。
ラヴェルはドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」を聴いて、しば
らくは彼の作風に傾倒した時代があり、ドビュッシーの技法を思わせる
ものも有ったが彼はドビュッシーの追従者ではなかった。
印象派的ピアノ技法などは、むしろラヴェルの方が先行していたほど
で、彼は印象派というより、新古典派作曲家として重要な地位にある。
しかし、印象派、象徴主義の頂上にあったフランスの文芸思潮の中に育
った音楽の双生児として、ドビュッシーと共に世界の音楽の流れを左右
した貴重な存在である。
1 ラヴエルの生涯
ラヴェルは1875年3月7日、大西洋岸の南フランス、スペインとの国境に
近いシブール(Chiboure)という漁港に生れた。 父はスイス生れの機械
技師で、母はこの地方のバスク出の娘であった。彼の生後三ケ月にして、
この家族はパリーに出て定住することになった。
父の希望で七歳ごろからピアノをはじめ、12歳では、ドリーブの門下
シャルル・ルネから和声学を掌んだ。
1889年(14歳)パリー国立音楽院に入学を許可せられ、
ピアノをアンティオーム(Anthiome)、後にド・ペリオのクラスに学ぶ。
1991年からはプサール(E.Pessard)に理論を学んだ。
在学中 「グロテスクなセレナード」(1893)
「古典風メヌエツト」(1895) などのピアノ曲を作って、
特異な個性を認められていた。
1897年、作曲をフォーレに、対位法をジエダルジュ(A.Gedalge,1856〜1926)
に学びカフェー「黒ねこ」のピアニストをしていたサティや、シヤブリエ
と交友してサティーの影響をも受けつつあった。 彼の作曲へのデビューは、
学生時代のピアノ連弾曲「耳で聞いた風景」(1898)でその天分を示し、
1899年10月には 管弦楽曲「シェエラザード」
ピアノ曲「逝ける王女の為のパヴァーヌ」
(Pavane Pour une Infante defunete)
が国民音楽協会で発表された。
1901年からローマ大賞に応募したが、定年の30歳までには成功しなかった。
が、これには審査員の間に不明朗な事件があって間題になった。
しかし、これからの十年間に、画期的な彼の主要作品が完成した。
その主なものは、
ピアノ曲では華麗な
「水の戯れ」(Jeux d'eau)、
「鏡」(Miroirs)(「道化師の朝の歌」など六曲を含む)
「ソナチネ」
「夜のガスパール」(Gaspatd de la Nuit「水の精」「絞首台」「スカルボ」)
喜歌劇には
「スペインの時」(L'Heure espagnole)
管弦楽曲には色彩感のゆたかな
「スペイン狂詩曲」(Rhapsodie espagnole)
さらにゴドウスカ夫人の邸に出入して、その子供たちの為のピアノ連弾曲
「マ・メール・ロワ」(Ma mere l'Oye)(後バレー曲に編曲された)
また声楽曲にはジュール・ルナールの散文詩へのユーモアにとむ
「博物誌」(Histoires Naturelles)という五曲の歌集がある。
この当時の作品は、印象派的1910年ごろ、パリーにアメリカのジヤズが
輸入され、ストラヴィンスキーや、六人組の若い人たちと一緒に、ジャズ
カフェーに入りびたっていた事もあり、彼の曲中にその影響が見えている。
1914年、第一次世界大戦に野戦病院付として出征し、戦傷のため1918年迄
創作生活がたたれた。戦争への呪いや、母の死への悲しみをこめて作った
のは、ピアノ曲「クープランの墓」(Tombeau de Couperin)であった。
1927〜28年、アメリカを訪問。
28年 「ボレロ」が作曲されている。
1931〜32年は、静かに自宅で作曲を続け、この間
「ピアノ協奏曲」
「左手のためのピアノ協奏曲」
(負傷したピアニストパウル・ヴィツトゲンシュタインの為にを作曲した)
1932年10月 自動車事故で頭部に負傷。
これが次第に悪化して精神錯乱をきたし、
1937年12月28日、脳の切開手術も効なく、62歳でこの世を去った。
2 ラヴエルの作風と作品
彼の作風は、印象派より、むしろ新古典主義によったもので、フランス的
エスプリの中に、細密に計算された古典派的構成があった。しかも、その
語法は極めて豊富であり、洗練されていて、モーツァルト、ショパンに通
ずる清純さがあり、近代音楽の一つの示標となっている。
「スイス製の時計のように精密だ」と言ったストラヴィンスキーの評は当
たっていよう。
このように、剰余観念を排した科学性の上に設計されるのは、近代音楽の
特性の一つである。
作品には前述のほかに
バレー「ダフニスとクロエ」(Daphnis et Chloe)(1911)
交響楽曲
「ラ・ヴァルス」(La Valse)(1919)
「ハパネラ」(「耳で聞いた風景」の第一曲)
歌劇的作品
「小児と呪文」(L'Enfant et les sortileges)(1925)
ピアノ曲
「高雅で感傷的なヴァルス」(1911)
(Valses nobles et sentimentales)
二つのピアノ協奏曲(1906)など。
室内楽
「ピアノ三重奏」(la)(1914)
「ヴァイオリン・ソナタ」
「ツィガーヌ」(ヴァイオリン曲)(1924)
「ドビュッシーの墓」(ヴァイオリンとチエロの)(1922)など
声楽曲
「シェエラザード」(アジア、魔笛、つれない人)
「ギリシヤ民謡」の五曲(花嫁の日ざめ、彼方の会堂ヘ、どんな
伊達者でも、乳香樹摘む人、実に愉快だ)
マラルメの「三つの詩」
(吐息、かいなき願い、頂きから上ってくる)など29曲。
(4) フランス近代作曲家(サティーと六人組)
近代音楽はドビュッシーによって開眼したが、これに満足せず、
新古典派主義、主知的客観的を重視した人たちに、特異な存在で知
られたサティー、そして、サティーの現実主義に共感した六人組を
あげることができる。
六人組(Groupe des Six)とはデュレイ、オネゲル、ミロー、
プーランク、オーリック、タイユフェールの六人で、ジヤン・コク
トー(Jean Cocteau)の指導によって、サティーを首領とした「新青年」
(Les Nouveaux Jeunes)がドビュツシーのロマン的主惰的主観性で
ある印象派に反抗し、1918、19に結成され、それらの青年のうち、
以上の六人が最も活動した。「六人組」の名称は1920年、アンリ・
コレーによって与えられたものである。
エリック・サティー

(Erik Satie, 1868〜1925)
父は作曲家、音楽出版 母もEugenie Satie-Barnetsche のペンネーム
をもつ作曲家であった。
1883年、パリー音楽院に入学したが、彼の性格に合わないので
中退し、モンマルトルのカフェーでピアノを弾きながら軽音楽の
作曲をしていた。
1890年ごろは、ドビュッシーとも交り、いくらか影響を与えた
ようである。
やがて進歩的な文化サークルに接触するようになり、学力の不足
を感じて、40歳で、スコラ・カントルムに入学。ダンデイやルー
セルに作曲法、対位法を学んだ。
4年後卒業するや、人の意表をついたような標題のピアノ曲等を、
つぎつぎに出版。
「冷たい小曲」(Pieces froides)
「馬の衣裳で」(En habit de cheval)
「干からびた胎児」(Embryons desechee)
はその一例である。
のちジヤン・コクトーと交わり、六人組などの若い作曲家の中心
となって、アルキュイユ派(Arcueil)といわれていた。
彼はドビュッシー、ラヴェルの巨像の蔭に覆われているが、
フランス近代および、現代音楽の原動力をなした作曲家であった。

サティがピアニストをしていたカフェ「黒猫」のポスター
1 ルイ・デュレイ

(Louis Durey, 1888〜1979)
13歳から音楽を学び、第一次大戦に従軍の後、サティの門に入
ったが、1923年から南フランスに引きこもり、作品は極めて少い。
ピアノ曲のタゴールへの「抒惰的奉献物」
ヴェルレーヌ、アンドレ・ジイドなどの詩による歌曲
その他がある。
2 アルトウール・オネゲル
(Arthur Honegger,1892〜1955)
スイス人を父母として生れ、最初オルガニストR.C.マルタンに
教育をうけ、
1909〜11、チューリヒ音楽院に、
1911〜13、パリー国立音楽院でジェダルジュとウィドールに
作曲法を、ダンデイに管弦楽法を学んだ。
1914年から作曲生活に入り、1920年ごろから「六人組」に属
し、ミローとともに活躍しその第一人者であった。
作品は歌劇、劇音楽、映画音楽、その他多岐にわたる。
管弦楽曲
「三つの交響的楽章」
第1「パシフィック231」(1923)
第2「ラグビー」 (1928)
第3(タイトルなし)(1932-33)
交響曲第五番「三つのRe」(Di tre re)(1951)
には新しい技法が用いられている。
声楽曲
「世界の叫び」
「火刑場のジヤンヌ・ダルク」
などは、そのダイナミツクな構成が注目されている。
3 ダリウス・ミロー
(Darius Milhaud, 1892〜1974)
ユダヤ系のフランス人で、1910年、パリー国立音楽院に入学
して、オネゲルと共にジェダルジュ、ウィドール、ダンディに
作曲理論を学び、進歩的な作曲を試みた。
この頃文学家クローデル(Paul Claudel)と知り合い、彼の劇
「プロテウス」(Protee,1913-19)などのために作曲し、1917〜
1919、クローデル公使の秘書となってリオ・デジヤネイロに滞在し、
南米の音楽に親しんだ。彼の劇音楽の大部分は、クローデル
によるものである。
1922年、第一回の国際現代音楽協会(I.S.C.M)音楽祭を提唱し、
現代音楽の発展につとめた。
バレーの作品に「世界創造」(La Creation du monde)(1923)
「男とその欲望」(L'Homme et son desir)(1921)、
「屋上の牡牛」(Le Boef sur le toit)(1920)
があって好評を博した。
彼は速成多作家で、300余の作曲があり、十二音、多調、無調
などあらゆる新技法を試みている。
1940年アメリカに移住し、戦後パリー国立音楽院の教授として、
隔年にパリーに出かけて活動した。
4 フランシス・プーランク

(Francis Poulenc, 1899〜1963)
はじめスペインのピアニスト、リカルド・ウィニェス(Ricardo Vines)
にピアノを学び、ほとんど独学で作曲を勉強した。
最初、古典派的教養を受けたが、サティーらの奇智に魅せられ、
進歩的な作曲を見せた。
作品はバレーのほか、あらゆる方面にわたっている
「黒人狂詩曲」(Rapsodie Negre)(1917)
「ナゼルの夜」(Les soirees de Nazelles)(1937)
二台のピアノのための「ソナタ」(1918)
その他多数ある。
5 ジョルジエ・オーリック

(Geoges Auric, 1899〜 )
パリー国立音楽院、スコラ・カントルムで教育をうけ知的な
作風で知られている。彼にはバレー、室内楽曲、声楽曲もあるが、
映画音楽にも活躍している。
6 ジェルメーヌ・タイユフェール(Germaine Tailleferre, 1892〜1983)
六人組中唯一の女流作曲家で、ミローやサティーと知り、歌劇
やバレーの作もあるが、 1942年、アメリカに移住し、映画音楽
に手を染めたこともあるが、作曲生活がほとんど停滞している。
新ロマン主義と近代音楽
1 フランスの近代音楽はドビュッシー、サティーらによって確立したが、
ドイツにおいても、ヴァーグナーの「未来の音楽」が破壊される時がきた。
ドビュッシーの直感的な音の再構成は、シェーンベルクによって論理的に
再構成されピアノの十二平均律は、1923年ごろ、ついに十二音構成を可能
にした。
しかし、それまでは、各人各様に、従来の音構成に見る、調性を忌避し
た作品が発表された。
2 この新しい運動には、ヴァーグナー、リストの流れを汲む、主観主情に
たつロマン派の一党と、これに反して、バッハ、モーツァルトのような
純粋な古典の、客観主知にたつものとがあった。これを区別するために、
前者は新ロマン主義といわれ後者は新古典主義といわれて、現代音楽の
支柱となったのである。
3 新ロマン主義は、十九世紀のロマン派の黄金時代の残映を追うもので、
近代音楽を代表するものであるが、かさなる世界大戦乱のために、その
様相は一変してしまった。
(1) 近 代 音 楽 の 概 観
年代的に近代音楽といえは、19世紀の最後の10年から、1920年頃におよぶ
30年間をさすものであるが、音楽の本質的な変化からいえば、七音音階によ
る調性的音楽が、ヴァーグナー、の「トリスタン」に到ってその極限に達し
たかの感がある。これがドビュッシーによって新しい道が開かれ、機能和声
を無視した多調、無調の音構成に、多くの作曲者が活発に創作を発表した。
この期間が平均律音律の最後の到達点なる十二音音楽を肯定するまでの、
過渡時代であったともいえる。
この間の代表的作曲家は、ドイツのリヒャルト・シュトラウスであり、フ
ランスのドビュッシーであって、共に近代音楽を輝かしいものとした。ドビ
ュッシーの印象派に対して、これはドイツの後期ロマン派の残映を継承して
いるので、「新ロマン主義」といわれたのである。
1 新ロマン主義(Neo-romantic)
リスト、ヴァーグナーの偉大な、ブルジョア的な壮麗な夢は、急に消え去る
ことなく、音楽後進国に強く影響して、国民楽派を盛大にした。
1900〜14年の、第一次世界大戦開始以前のドイツ、殊にベルリンは、まさ
に世界音楽の中心地で、伝統のロマン派を守りながら、印象派や表現派の進歩的技法を
採用して、新しいロマン派音楽を建設していた。
| ベルリン | フーゴー・ヴォルフ |
| グスタフ・マーラー | |
| リヒャルト・シュトラウス | |
| ハンス・フィッナー |
| フィンランド | シベリウス | |
| イギリス | エルガー | |
| アメリカ | マクダウェル | |
| スペイン | アルベニス | グラナドス |
| イタリア | レスピーギ、ピゼッティ | 現実派(ヴエリズモ)の歌劇作家の一群 |
近代音楽の源を1890〜1920とし、1920年以後を現代音楽とした。
近代音楽とは、調性が破壊されて多調、無調の非調性時代をさまよい
歩いていた、新ロマン主義の30年間の歴史である。
A 多調性(Polytonality)
また複調(bitonality)というのは、二つの調に限って複合される
場合にいう。
B 無調性(atonality)
ウィーン古典派では、転調も機能的に行われていたが、後期ロマン派
になって、非音階音の上の経過和音(半音階的変化和音)が用いられて、
はなはだ音色が豊富になったが、最後はやはり終止形を作ることを忘れ
なかった。
なお、無調性音楽が作られるようになって、この種の音楽は民族性を離れ、伝統
を捨てるようになったので、作曲技法は民族を越えて国際的となり、音楽芸術は、
もはや世界共通の語法によって、新しい共同の音楽を創作する道が開けてた。現代
において、それがさらに顕著になった。これが現代音楽の性格である。
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