SYMPHONIE
印象派
 
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印象派

 

□ 19世紀 □ 印象派 □ 近 代


 印象派とフランス近代音楽 


 印 象 派

印象派音楽 作曲家 ラファエル前派の影響 画家 作家 ミロー
印
象
派
概
要
      ドビュッシー  ラヴェル  サティー
 
       印象 日の出     六人組 
      デュレイ オネゲル
象徴主義の影響      ミヨー
      オーリック タイユフェール


フランス以外の近代音楽


国 別
   新ロマン主義    新古典主義  印象派以前
概
要
 
作
曲
家
 近代音楽    近代音楽の特質
       多調性    無調性



【概 要】

1 19世紀の末期に、フランスに象徴主義文学や、印象主義美術がさかんになり、
 このグループの影響を受けたドビュッシーは、音楽にこのイデアを採り入れて、
 印象派音楽を樹立した。

2 印象派の技法は、従来の機能和声的構成によった長短音階の音組織を、徹
 底的に破壊して、音のあらゆる可能性を再検討し、新しい音構成を試みた。
 このような音楽を近代音楽というのである。
 多調、無調、十二音音階、その他の新しい技法は、ここから発生して来た。

3 フランス近代音楽は、ドビュッシー、エリック・サティーによって形成され
 ラヴェル、六人組の若い作曲家を出した。中にもラヴエルは、古典派を追想
 しながら、フランス流の洗練された典雅な作風を残し、六人組はサティーを
 主軸とし、ドビュッシーの印象派を排して、現代音楽の分野で活動した。



(1) 印 象 派 音 楽

1 印象派音楽と近代音楽の意義

   ドイツ・ロマン派音楽は、北欧、南欧において国民楽派を誘導したが、
   フランスには、ドイツの正統音楽を育成しようとする国民音楽協会の
   ほかに、反ロマン、反ヴァグネリズムの旗じるしを掲げた、一種の民
   族主義的な運動が起った。これは北欧、南欧の国民楽派のような懐古的
   民族主義ではなくて、当時フランスの美術界や、文学界を風靡していた
   印象主義、象徴主義を音楽へ導入した、新しい文芸運動であった。


   「何よりもまず音楽を」(ヴェルレーヌ)

     この運動の主唱者はドビュッシーであり、当時この楽派は印象派と
   よばれた。その時期は、彼がマラルメやヴェルレーヌとの交友がはじま
   った1890年から彼の病死までの二十数年間と見ることができる。
   印象派音楽が短期間に限られたのは、その当時のあらゆる作曲家に影響
   して、新ロマン派、新古典派の新しい分野が作られるようになり、印象
   派という特定の性格が失われたことによる。これはドビュッシーの技法
   には、形式的発展性がなかったからでもある。

   「展開するのは、語るものが、もうないからだ」(ドビュッシー)


   ドイツ古典派、ドイツ・ロマン派は、七音音階による調性、三度和声を
   基調としてきたのであるが、ドビュッシーにいたって、この金科玉条が
   破られ、ピアノ鍵盤の上に作られる、あらゆる和音構成が試みられた。
   歴史学者は、これを「近代音楽」への転機としている。
    近代音楽(modern music)は、音楽史では現代音楽(contemporaly
   music)と区別される。

  ともかくも、印象派音楽の出現によつて、バッハ、ベートーヴェン以来の
  音楽の様相は一変して、「近代音楽」の時代にはいった。


2 印象主義(Impressionisme)

impression日の出 Claude Monet「印象 "日の出"」

             この言葉はフランスの絵画運動の用語であった。
   即ち、マネ(E.Manet,1832〜83)モネ(C. Monet, 1840〜1926)らの外光派
   に与えられたもので、1860〜82頃に現われた絵画技法である。

     印象とは外界の模写でなく、一度心情に刺戟を与えた内的の印象を、
   主観的に表現するものである。これはミレーやコローの写実派への反抗
   で、固有色を、プリズム的原色を主体とした色調の配合によって、色感
   的にボリュームを得ようというものであった。  またこの運動と同じ
   verlaine 考えによって、 「芸術のための芸術」のモットーをあげたマラルメ
(Mallarme,1842〜98)、 ヴェルレーヌ(Verlaine, 1844〜96)
ら の詩人による象徴主義(Symbolism)が提唱されて、
マラルメを中心とした「火曜会」が作られ、これらの
画家、文芸家と共にドビュッシーもそのメンバーに加
わっていた。アナトール・フランス(AnatoleFrance, 18
44〜1924)は象徴派の最大の文学者であった。

そのような思想的、技法的結果としてのドビュツシー
の音楽は、絵画の光線と色彩感を音楽に導入し、自然
主義、現実主義的なものを排して、象徴的な、幻想的
な主観描写をねらったものであった。
 (Verlaine,1844〜96)







3 印象派音楽の特質

    従来の音楽は、一定の調性のもとに、主題の発展と、その解決終止が
   中心となる構造を 持ち、その発展も、おのずから機能的転調を伴って、
   水平線的に構成されていた。従って、その鑑賞も、合理的な完成に向け
   られたが、印象派音楽では、構成の理智的探究よりも、直観的零囲気に
   突入することが、至上条件であり、したがって、官能的な音感覚に、直
   接に訴えることが要求された。その結果として、次のように、あらゆる
   面で、従来の理論が破壊された。


  1 旋律

  2 音階と旋律

  3 調性

  4 機能和声         
        
  5 音色効果


4 印象派の人たち

   以上のような画期的改革は、ドビュッシーによってなされたが、これら
  の技法は、部分的にはすでに、ロマン派の作家にも使用されていた。
  しかも、音組織の再編成に対しては、素人作曲家であったムソルグスキー
  の、主観的な技法にも暗示を受けたといわれる。
   こうした反ロマン的技法は、たちまち若い作曲者を刺戟し、ラヴェルは、
  さらにこれを追及して新古典主義に進み、デュカ、ルーセルなども、ドビ
  ュッシーに同調し、以後フランス作曲家プーランク、オネゲルにもその影
  響が認められる。
   なおフランス印象派は、スペインのアルベニス、ファリァ、イギリスの
  スコット、ディーリアス、イタリアのレスピーギ、その他、ブゾーニ派の
  新古典派を主張する人々でも、ドビュッシーの影響を受けないものは殆ど
  いないということができる。


(2) ド ビ ユ ッ シ ー

ドビュッシー
 クロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy ,1862 〜1918)


  彼は久しい間、異端者として見られていたが、現代音楽が体系を整えてくるに
  従って、その根元はドビュッシーにあることが確認されてから、彼の音楽史上
  の地位は、非常に大きいものとなった。印象派という言葉は、彼ひとりのもの
  となってしまった感があるがその音楽技法は現代音楽に引つがれて、今日に生
  きている。

1 ドビュッシーの生涯

   彼は1862年、8月22日。パリー郊外のサン=ジェルマン=アンレの雑賃商の
  子として生れた。先祖はブルゴーニュの農民出で、教養のある家庭ではなか
  った。彼が生れて2年後、父はパリーに出て店員として働いていた。
  幼少時代のことは、よく知られていないが、蝶の採集などをして自然に親し
  んでいたという。

A 修業時代(1862〜90)

   7歳の時、はじめてピアノを学び、1871年(九歳)から3年間、かつて
  ショパンの門下と自称するモーテ・ド・フルールヴィユ夫人(Mme Maute
  de Fleurville)(詩人ヴェルレーヌの義母)について本格的レッスンを受け
  (稽古は、ヴェルレーヌ夫妻と一緒に住んでいたアパルトマンで行われた。
  この家にはアルテュール・ランボォが客としてしばしば訪れている)
  1872年10月、パリー国立音楽院に入学することができた。
   ここではピアノをマルモンテル(Antoine Marmontel,1816〜93)に、ソル
  フェージュをラヴィニャック(Albert Lavignac, 1846〜1916)に、のちに
  和声学をデュラン(Auguste Durand, 1830〜1909)に、作曲法をギロー(Ernest
   Guiraud, 1837〜92)に師事した。
  中でもラヴィニヤックとギローは、彼の天分を支持してくれたようである。
   素晴らしい伝統を持つ音楽学校に入ったが誰も彼にフランス語の文法や
  綴字法を教えなかった。

  1883年、ローマ大賞に応募したが、第2賞第1席。84年、輝くローマ大賞を
  得た。 入賞曲はカンタータ「放蕩児」(L'Enfant Prodigue)で、翌年ローマ
  に出発した。留学中は社交性に欠けている彼は、常に孤独で、3ヶ年の期
  間を一年早く帰国した。
   しかしこの間に、パレストリーナやラッソのミサを聴くことができ、
  レオンカヴァルロ、ヴェルディとも会い、さらにズガンバーティ家で、
  リストとの二重奏を聴くことができたなどのプラスがあった。

   パリーの修業中のドビュッシーは、経済的に恵まれなかった。
  マルモンテルの推薦で、かってチャイコフスキーの後援者であつたフォン・
  メック夫人の子供家庭教師となり、1880、1881の2年間、その家族とスイス、
  イタリアに旅行したり、ロシアまでも見学することができた。
  1882年ウィーンで初めてワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」を聴いた
  らしい。その後も声楽教師の伴奏を手伝い、その収入で書籍や絵を購入し、
  教養の補強に努めた。
   1884年には、教養ある建築技師ヴァニエ家に出入するようになり、そこ
  の蔵書から多くのものを吸収することができた。
  

   さて留学作品として提出されたものは四曲で、「春」と「ズュレイマ」
  は草稿だけであり、ロゼッテイの抒惰詩による合唱曲「選ばれた乙女」
  (La Damoisselle elue)と、ピアノと管弦楽のための「幻想曲」は、パリー
  で作曲されたものであった。

   これらの作品は、ヴァーグナトやマスネーの影響を多分に受けてはいた
  が、部分的に独自な個性を見せていた。(「選ぱれたる乙女」の冒頭には
  五度の並行が大胆に使用された)
  

  1888、1889年には、バイロイトで「パルジファル」「トリスタン」をきき、
  その自由奔放な和声法にうたれ、ロシア旅行ではムソルグスキーの「ボリス」
  で音楽には法則というものが存立しない、耳だけがその審判者であることを
  知った。
   さらに彼の創作意欲を誘ったものは、1889年のパリー万国博覧会であり、
  極東からの音楽舞踊団(日本からは川上貞奴、音二郎一座が参加)の、異国
  的音楽に深く感動した。東洋的簡素幽玄な表現に、ヨーロッパ的な機能
  和声、管弦楽法の過重、導旋律の不合理をさとり、ヴァーグナーを抹殺して、
  新しい音楽美の創造を決意した。
   ドビュッシーの旋律の中に、日本の旋律の断片がのぞいたり、六全音音階
  の意想(ほぼ七平均律に近い半音をもたない音階)はタイ国のものであり、
  ジヤヴァのガムランの影響をも見せ、日本の笙の四度和声なども、この時に
  得たものであろう。
   1881年12月頃からキャバレー「黒猫」に夜な夜な足を運び始め、あれ
  これ歴訪範囲を広げていくうちにマラルメの火曜會にたどり着く。
   1890年には、マラルメの火曜会に、唯一人の音楽家として参加した。
  この頃、エリック・サティとも知り合い、彼の作曲は急カ−ブを描いて新し
  い道を進んだ。 つまりドビュッシーの印象派作品というのは、これ以後に
  属するものである。

 B 印象派時代 (1891〜1918)


   彼はパリーに居をすえて、野心的作品を送りだした。
   まずそのスタートには次のような歌曲集が目立つ。

   ヴェルレーヌの詩による
  「三つの旋律」(海は美し、角笛の音はかなし、垣のならび)(1891) 
   同人の詩による「なまめかしき宴」(Fetes galantes)第1集(1892)第2集(1904)

   ドビュッシー自身の詩による「抒情的散文」(Proses lyriques)(1893)

   ルイスの詩「ビリティスの歌」(Chanson de Bilitis)(1897)

   さらに重要なものは「弦楽四重奏曲」(1893)であり、次に、彼の声望を
   絶対のものとしたのは、マラルメの詩による「牧神の午後への前奏曲」
   (Prelude a l'apre-midi d'un Faune)(1894)であった。


nyzinsky
                  天才バレリーナ、ニジンスキーが後に演じた「牧神」

   これは1894年12月22日、国民音楽協会で初演され、作詩者の激賞をえた。


   彼は、歌劇においてもヴァーグナーに対決しようと、 べルギーの文豪、
   メーテルリンクの「ペレアスとメリザンド」(Pelleas et Melisande)と
   取り組んでいた。

   1899年、ドレスメーカーのロザリー・リリー(Rosalie Lili Texier)と結婚
   したが、家計を補うため1901年「ルヴュー・ブランシュ」に音楽評論の
   筆を執ったりした。

    やがて「ペレアス」が完成し、1902年4月30日、メッサージェ指揮に
   よって、パリー、オペラコックで初演された。 これは人形劇の為に
   書かれた神秘劇で、王子ゴローが森で会ったメリザンドと結婚するが、
   メリザンドはゴローの弟、ペレアスとも近づくことから、ゴローの嫉
   妬が悲劇を起こすのである。 ともかくもこの歌劇は、ヴァーグナー
   以後の、20世紀の最大傑作といわれた。

    1903年、フランス政府はレジョン・ドヌール勲章を授け、その名誉を
   たたえた。 翌年、ロザリーと離婚。銀行家の妻であったエンマ夫人
   (Mme Emma Bordac)と恋に陥ち、1905年結婚した。彼女は美しい、しか
   も富裕な声楽家であった。この年エンマに子ができたので、そのよろこ
   びから、ピアノ曲「子供の領分」(Children's Corner)を作つた。
   


   その後、多くのピアノ曲、歌曲、その他を作曲したが、1909年ごろから、
   癌(がん)の症状が表われ、それに1914年、第一次世界大戦には心労が
   多く、愛国の至情を二台のピアノの為の「白と黒で」(En blanc et noir)(1915)
   「家なき児らのクリスマス」(Noel des enfants qui n'ont plus de
    maisons)(1915)を作って寄せていたが、その後、戦争悪化の中に1918年
   3月25日、パリーに永眠した。

2 ドビュッシーの作風と作品

    彼の作風は印象派そのものであるから、前条にすでに尽している。 今
   世紀の初頭には一般に理解されなかつた彼の作風も、その後の進歩的な楽
   風が現われたので、むしろ古典にすら思われるようになったほどに、その
   存在が肯定され、同時に、バロック音楽時代から累積されて来た音楽理論
   に、完全屈折を与えたという事実は、音楽史上の新紀元であることが、次
   第に認識されてきた。

   代表的作品には、

    歌 劇    「ぺレアスとメリザンド」
    バレー音楽  「遊戯」(Jeux)(1913)(ニジンスキーのために作曲)
    管弦楽曲   「春」、「牧神の午後への前奏曲」
           三部作の「海」(1905)「映像」(Image)

    室内楽曲   「弦楽四重奏曲」
           「チェロ・ピアノ」
           「フルート・ヴィオラ・ハープ」
           「ヴァイオリン・ピアノ」
            などのソナタがある。
    ピアノ曲   「ベルガマスク組曲」(Suite Bergamasque)(1905)
           「版画」(Estamps)(1903)
           「歓喜の島」(L'Isle Joyeuse)(1904)
           「影像」第一集(1905)、第二集(1907)
           「子供の領分」、「前奏曲」第一集、第二集(1910〜13)
           「練習曲集」第一巻、第二巻(24曲)(1915)

     その他合唱曲では「放蕩児」「選ばれた少女」他、
     歌曲には珠玉のような歌が多く残されている。主なる作詞者は、
    
           ヴェルレーヌ、ミュッセ、マラルメ、ボードレール、
           ルイス、ヴィヨン、レルミート等である。

     Debussy Works List
             




(3)ラヴェル

ラヴェル
    モーリス・ラヴェル(Maurice Joseph Ravel,1875〜1937)は、エリック・
   サティー
とドビユッシーに加えて、当時のフランスにおける三人の異端
   作曲家として、正統派からは白眼視されていた一人である。

    ラヴェルはドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」を聴いて、しば
   らくは彼の作風に傾倒した時代があり、ドビュッシーの技法を思わせる
   ものも有ったが彼はドビュッシーの追従者ではなかった。
    印象派的ピアノ技法などは、むしろラヴェルの方が先行していたほど
   で、彼は印象派というより、新古典派作曲家として重要な地位にある。
   しかし、印象派、象徴主義の頂上にあったフランスの文芸思潮の中に育
   った音楽の双生児として、ドビュッシーと共に世界の音楽の流れを左右
   した貴重な存在である。

1 ラヴエルの生涯

    ラヴェルは1875年3月7日、大西洋岸の南フランス、スペインとの国境に
   近いシブール(Chiboure)という漁港に生れた。 父はスイス生れの機械
   技師で、母はこの地方のバスク出の娘であった。彼の生後三ケ月にして、
   この家族はパリーに出て定住することになった。
    父の希望で七歳ごろからピアノをはじめ、12歳では、ドリーブの門下
   シャルル・ルネから和声学を掌んだ。
   1889年(14歳)パリー国立音楽院に入学を許可せられ、
   ピアノをアンティオーム(Anthiome)、後にド・ペリオのクラスに学ぶ。
   
   1991年からはプサール(E.Pessard)に理論を学んだ。
   在学中 「グロテスクなセレナード」(1893)
       「古典風メヌエツト」(1895)     などのピアノ曲を作って、

   特異な個性を認められていた。
   
   1897年、作曲をフォーレに、対位法をジエダルジュ(A.Gedalge,1856〜1926)
   に学びカフェー「黒ねこ」のピアニストをしていたサティや、シヤブリエ
   と交友してサティーの影響をも受けつつあった。 彼の作曲へのデビューは、
     学生時代のピアノ連弾曲「耳で聞いた風景」(1898)でその天分を示し、

   1899年10月には 管弦楽曲「シェエラザード」
           ピアノ曲「逝ける王女の為のパヴァーヌ」
               (Pavane Pour une Infante defunete)
                        が国民音楽協会で発表された。

   1901年からローマ大賞に応募したが、定年の30歳までには成功しなかった。
   が、これには審査員の間に不明朗な事件があって間題になった。

   しかし、これからの十年間に、画期的な彼の主要作品が完成した。
  その主なものは、
  ピアノ曲では華麗な

   「水の戯れ」(Jeux d'eau)、
   「鏡」(Miroirs)(「道化師の朝の歌」など六曲を含む)
   「ソナチネ」
   「夜のガスパール」(Gaspatd de la Nuit「水の精」「絞首台」「スカルボ」)


   喜歌劇には

         「スペインの時」(L'Heure espagnole)

   管弦楽曲には色彩感のゆたかな
         「スペイン狂詩曲」(Rhapsodie espagnole)

   さらにゴドウスカ夫人の邸に出入して、その子供たちの為のピアノ連弾曲
         「マ・メール・ロワ」(Ma mere l'Oye)(後バレー曲に編曲された)

   また声楽曲にはジュール・ルナールの散文詩へのユーモアにとむ
   「博物誌」(Histoires Naturelles)という五曲の歌集がある。

    この当時の作品は、印象派的1910年ごろ、パリーにアメリカのジヤズが
   輸入され、ストラヴィンスキーや、六人組の若い人たちと一緒に、ジャズ
   カフェーに入りびたっていた事もあり、彼の曲中にその影響が見えている。

   1914年、第一次世界大戦に野戦病院付として出征し、戦傷のため1918年迄
   創作生活がたたれた。戦争への呪いや、母の死への悲しみをこめて作った
   のは、ピアノ曲「クープランの墓」(Tombeau de Couperin)であった。

   1927〜28年、アメリカを訪問。
      28年 「ボレロ」が作曲されている。

   1931〜32年は、静かに自宅で作曲を続け、この間

         「ピアノ協奏曲」
         「左手のためのピアノ協奏曲」
       (負傷したピアニストパウル・ヴィツトゲンシュタインの為にを作曲した)
          
   1932年10月   自動車事故で頭部に負傷。
           これが次第に悪化して精神錯乱をきたし、
   1937年12月28日、脳の切開手術も効なく、62歳でこの世を去った。


2 ラヴエルの作風と作品

    彼の作風は、印象派より、むしろ新古典主義によったもので、フランス的
    エスプリの中に、細密に計算された古典派的構成があった。しかも、その
    語法は極めて豊富であり、洗練されていて、モーツァルト、ショパンに通
    ずる清純さがあり、近代音楽の一つの示標となっている。 
    「スイス製の時計のように精密だ」と言ったストラヴィンスキーの評は当
    たっていよう。
    このように、剰余観念を排した科学性の上に設計されるのは、近代音楽の
    特性の一つである。

  作品には前述のほかに

     バレー「ダフニスとクロエ」(Daphnis et Chloe)(1911)

     交響楽曲
        「ラ・ヴァルス」(La Valse)(1919)
        「ハパネラ」(「耳で聞いた風景」の第一曲)

     歌劇的作品
        「小児と呪文」(L'Enfant et les sortileges)(1925)

     ピアノ曲
        「高雅で感傷的なヴァルス」(1911)
         (Valses nobles et sentimentales)
         二つのピアノ協奏曲(1906)など。

     室内楽

        「ピアノ三重奏」(la)(1914)
        「ヴァイオリン・ソナタ」
        「ツィガーヌ」(ヴァイオリン曲)(1924)
        「ドビュッシーの墓」(ヴァイオリンとチエロの)(1922)など

     声楽曲

        「シェエラザード」(アジア、魔笛、つれない人)

     シンドバットの船
        「ギリシヤ民謡」の五曲(花嫁の日ざめ、彼方の会堂ヘ、どんな
                        伊達者でも、乳香樹摘む人、実に愉快だ)

         マラルメの「三つの詩」
               (吐息、かいなき願い、頂きから上ってくる)など29曲。
         
            



(4) フランス近代作曲家(サティーと六人組)


       近代音楽はドビュッシーによって開眼したが、これに満足せず、
     新古典派主義、主知的客観的を重視した人たちに、特異な存在で知
     られたサティー、そして、サティーの現実主義に共感した
六人組を
     あげることができる。
       六人組(Groupe des Six)とはデュレイ、オネゲル、ミロー、
     プーランク、オーリック、タイユフェールの六人で、ジヤン・コク
     トー(Jean Cocteau)の指導によって、サティーを首領とした「新青年」
     (Les Nouveaux Jeunes)がドビュツシーのロマン的主惰的主観性で
     ある印象派に反抗し、1918、19に結成され、それらの青年のうち、
     以上の六人が最も活動した。「六人組」の名称は1920年、アンリ・
     コレーによって与えられたものである。


エリック・サティー
サティー
(Erik Satie, 1868〜1925)

      父は作曲家、音楽出版 母もEugenie Satie-Barnetsche のペンネーム
      をもつ作曲家であった。

       1883年、パリー音楽院に入学したが、彼の性格に合わないので
      中退し、モンマルトルのカフェーでピアノを弾きながら軽音楽の
      作曲をしていた。

       1890年ごろは、ドビュッシーとも交り、いくらか影響を与えた
      ようである。
      やがて進歩的な文化サークルに接触するようになり、学力の不足
      を感じて、40歳で、スコラ・カントルムに入学。ダンデイやルー
      セルに作曲法、対位法を学んだ。
      4年後卒業するや、人の意表をついたような標題のピアノ曲等を、
      つぎつぎに出版。

        「冷たい小曲」(Pieces froides)
        「馬の衣裳で」(En habit de cheval)
        「干からびた胎児」(Embryons desechee)
                           はその一例である。

      のちジヤン・コクトーと交わり、六人組などの若い作曲家の中心
      となって、アルキュイユ派(Arcueil)といわれていた。

        彼はドビュッシー、ラヴェルの巨像の蔭に覆われているが、
      フランス近代および、現代音楽の原動力をなした作曲家であった。

        黒猫
        サティがピアニストをしていたカフェ「黒猫」のポスター
                            



1 ルイ・デュレイ
デュレイ
(Louis Durey, 1888〜1979)
       13歳から音楽を学び、第一次大戦に従軍の後、サティの門に入
      ったが、1923年から南フランスに引きこもり、作品は極めて少い。
         ピアノ曲のタゴールへの「抒惰的奉献物」
         ヴェルレーヌ、アンドレ・ジイドなどの詩による歌曲
       その他がある。

2 アルトウール・オネゲル
オネガー
(Arthur Honegger,1892〜1955)

       スイス人を父母として生れ、最初オルガニストR.C.マルタンに
       教育をうけ、
        1909〜11、チューリヒ音楽院に、
        1911〜13、パリー国立音楽院でジェダルジュとウィドールに
             作曲法を、ダンデイに管弦楽法を学んだ。
        1914年から作曲生活に入り、1920年ごろから「六人組」に属
            し、ミローとともに活躍しその第一人者であった。
       作品は歌劇、劇音楽、映画音楽、その他多岐にわたる。



        管弦楽曲
          「三つの交響的楽章」
             第1「パシフィック231」(1923)
             第2「ラグビー」 (1928)
             第3(タイトルなし)(1932-33)

           交響曲第五番「三つのRe」(Di tre re)(1951)
             には新しい技法が用いられている。
        声楽曲
          「世界の叫び」
          「火刑場のジヤンヌ・ダルク」

             などは、そのダイナミツクな構成が注目されている。




3 ダリウス・ミロー
ミロー
(Darius Milhaud, 1892〜1974)

         ユダヤ系のフランス人で、1910年、パリー国立音楽院に入学
        して、オネゲルと共にジェダルジュ、ウィドール、ダンディに
        作曲理論を学び、進歩的な作曲を試みた。
         この頃文学家クローデル(Paul Claudel)と知り合い、彼の劇
       「プロテウス」(Protee,1913-19)などのために作曲し、1917〜
       1919、クローデル公便の秘書となってリオ・デジヤネイロに滞在し、
        南米の音楽に親しんだ。彼の劇音楽の大部分は、クローデル
       によるものである。
       1922年、第一回の国際現代音楽協会(I.S.C.M)音楽祭を提唱し、
       現代音楽の発展につとめた。

       バレーの作品に「世界創造」(La Creation du monde)(1923)
              「男とその欲望」(L'Homme et son desir)(1921)、
              「屋上の牡牛」(Le Boef sur le toit)(1920)
                       があって好評を博した。

         彼は速成多作家で、300余の作曲があり、十二音、多調、無調
         などあらゆる新技法を試みている。 
         1940年アメリカに移住し、戦後パリー国立音楽院の教授として、
         隔年にパリーに出かけて活動した。



4 フランシス・プーランク

プーランク
(Francis Poulenc, 1899〜1963)

        はじめスペインのピアニスト、リカルド・ウィニェス(Ricardo Vines)
        にピアノを学び、ほとんど独学で作曲を勉強した。
        最初、古典派的教養を受けたが、サティーらの奇智に魅せられ、
        進歩的な作曲を見せた。

        作品はバレーのほか、あらゆる方面にわたっている

         「黒人狂詩曲」(Rapsodie Negre)(1917)
         「ナゼルの夜」(Les soirees de Nazelles)(1937)
          二台のピアノのための「ソナタ」(1918)
        その他多数ある。

5 ジョルジエ・オーリック
オーリャック
(Geoges Auric, 1899〜 )

          パリー国立音楽院、スコラ・カントルムで教育をうけ知的な
        作風で知られている。彼にはバレー、室内楽曲、声楽曲もあるが、
        映画音楽にも活躍している。

6 ジェルメーヌ・タイユフェール(Germaine Tailleferre, 1892〜1983)

         六人組中唯一の女流作曲家で、ミローやサティーと知り、歌劇
        やバレーの作もあるが、 1942年、アメリカに移住し、映画音楽
        に手を染めたこともあるが、作曲生活がほとんど停滞している。



新ロマン主義と近代音楽


     1   フランスの近代音楽はドビュッシー、サティーらによって確立したが、
       ドイツにおいても、ヴァーグナーの「未来の音楽」が破壊される時がきた。
       ドビュッシーの直感的な音の再構成は、シェーンベルクによって論理的に
       再構成されピアノの十二平均律は、1923年ごろ、ついに十二音構成を可能
       にした。
       しかし、それまでは、各人各様に、従来の音構成に見る、調性を忌避し
       た作品が発表された。

     2  この新しい運動には、ヴァーグナー、リストの流れを汲む、主観主情に
        たつロマン派の一党と、これに反して、バッハ、モーツァルトのような
        純粋な古典の、客観主知にたつものとがあった。これを区別するために、
        前者は新ロマン主義といわれ後者は新古典主義といわれて、現代音楽の
        支柱となったのである。

     3  新ロマン主義は、十九世紀のロマン派の黄金時代の残映を追うもので、
       近代音楽を代表するものであるが、かさなる世界大戦乱のために、その
       様相は一変してしまった。




(1) 近 代 音 楽 の 概 観

      年代的に近代音楽といえは、19世紀の最後の10年から、1920年頃におよぶ
     30年間をさすものであるが、音楽の本質的な変化からいえば、七音音階によ
     る調性的音楽が、ヴァーグナー、の「トリスタン」に到ってその極限に達し
     たかの感がある。これがドビュッシーによって新しい道が開かれ、機能和声
     を無視した多調、無調の音構成に、多くの作曲者が活発に創作を発表した。
      この期間が平均律音律の最後の到達点なる十二音音楽を肯定するまでの、
     過渡時代であったともいえる。
      この間の代表的作曲家は、ドイツのリヒャルト・シュトラウスであり、フ
     ランスのドビュッシーであって、共に近代音楽を輝かしいものとした。ドビ
     ュッシーの印象派に対して、これはドイツの後期ロマン派の残映を継承して
     いるので、「新ロマン主義」といわれたのである。



    1 新ロマン主義(Neo-romantic)

      リスト、ヴァーグナーの偉大な、ブルジョア的な壮麗な夢は、急に消え去る
     ことなく、音楽後進国に強く影響して、国民楽派を盛大にした。
     1900〜14年の、第一次世界大戦開始以前のドイツ、殊にベルリンは、まさ
     に世界音楽の中心地で、伝統のロマン派を守りながら、印象派や表現派の進歩的技法を
     採用して、新しいロマン派音楽を建設していた。

 

ベルリン フーゴー・ヴォルフ
グスタフ・マーラー
リヒャルト・シュトラウス
ハンス・フィッナー

 

フィンランド シベリウス
イギリス エルガー
アメリカ マクダウェル
スペイン アルベニス グラナドス
イタリア レスピーギ、ピゼッティ 現実派(ヴエリズモ)の歌劇作家の一群
     
     そしてシェンベルク、シュレーカー、スクリアービン、グラズーノフ、シマノフス
     キー、ラフマニノフ、 エネスコ、ファリアなどの名をあげることができる。
     そのほか、民族主義ともいわれるバルトーク、コダイも、その出発はシェーン
     ベルクのように、一度はロマン派の洗礼を受けている。



2 近代音楽の特質

     近代音楽といえば、新ロマン主義の人たちが主軸 となるのであるが、

     近代音楽の源を1890〜1920とし、1920年以後を現代音楽とした。

     近代音楽とは、調性が破壊されて多調、無調の非調性時代をさまよい
     歩いていた、新ロマン主義の30年間の歴史である。

     
     



  A 多調性(Polytonality) 

        また複調(bitonality)というのは、二つの調に限って複合される
        場合にいう。




  B 無調性(atonality)
        
         ウィーン古典派では、転調も機能的に行われていたが、後期ロマン派
        になって、非音階音の上の経過和音(半音階的変化和音)が用いられて、
        はなはだ音色が豊富になったが、最後はやはり終止形を作ることを忘れ
        なかった。



     なお、無調性音楽が作られるようになって、この種の音楽は民族性を離れ、伝統
    を捨てるようになったので、作曲技法は民族を越えて国際的となり、音楽芸術は、
    もはや世界共通の語法によって、新しい共同の音楽を創作する道が開けてた。現代
    において、それがさらに顕著になった。これが現代音楽の性格である。

 

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19世紀という時代の雰囲気


 ●19世紀という時代の雰囲気●

 芸術のための芸術
国 別
  自然主義 象徴主義 審美主義
デ
カ
ダ
ン
ス

 
作
 
家
 ゾ ラ     ワイルド 
モォパッサン ホイッスラー
ユイスマン ヴェルレーヌ スウィンバーン
    マラルメ ラファエル前派


 近 代 精 神


フランス
   詩 学  アルス・ガリカ
概
要
 
思
想
家
 ベルクソン    ヴァレリィ
             


   
【概 要】

 19世紀に於ける人々の心は、キリスト教の終末思想により世界の滅亡に対する不安で
いっぱいであった。いよいよ近づいて来る世界の崩壊。自分の世界、伝統に対する不安
から自らを建て直す為、根源への回帰、昔起こった事例を再検証することで終末をなん
とか回避できないかと模索を始めた。

 此の様な回帰のなかに、ギリシア時代の“女神”という存在がクローズアップされた。
生産をつかさどる“女神”の美を創造することが、生をも保証してくれるのではないか
と考えたとしても不思議ではない。

 女神像の例として次のようなものが見られる。

1814 アングル 『グランド・オダリスク』  
1863 カバネル 『ヴィーナスの誕生』
1865 マ ネ  『オランピア』

 

 これらのイメージは時代が進むにつれて次第にギリシア悲劇の様子を取り始めるが、
これも運命と闘う人間を描き出すことで乗り越えようとする偽りの無い姿なのであろう。

絵画では

  1865 モロー 『オルフェウスの首を抱くトラキアの娘』
  1894 ビアズリー 『踊り子の報酬(サロメ)』

音楽では

  1873初演 マスネー 『復讐の女神』
    アイスキュロス 『オレスティア』に取材
1903-05 1881初演 マスネー 『エロディアード』
  1894初演 マスネー 『タイス』

 

ロマン主義作家が好んだ主題「悔い改めた娼婦」は、かつてキリストが救った女性の
姿を二重写しにしているかのようである。無垢と謙虚さの美に対する信仰。 一方、
『ドンキホーテ』に見られるように外れた精神を不協和音で「曇った」表現に使い、
心がいやされる場面までその解決音が現れるのをのばす。といった音響を心理描写の
一つとして用い始める。

 

1903-05 1905初演    
1906-08 1909初演 R.シュトラウス 『エレクトラ』
1906-08 1919初演 R.シュトラウス 『影のない女』

 

 

R.シュトラウスのオペラの例でもわかるように、時代精神と渾然一体となった芸術の
“女神”は次第に「デカダンス」の香りを漂わせ始め、さらには“赤い血の通った”
存在感すら無くし中性化してきている。

 

 

 概念上の中性化が一つの抽象化の道を開いた。その先駆けである
「芸術のための芸術」というロマン主義的な教義はフランスで生まれた。

 イギリスで「審美主義」の中に味方をみつけ、さらにアメリカの画家ホイッスラー、
イギリスの詩人スウィンバーン、美学者ウォルター・ペイターそしてラファエロ前派
によって擁護された。

特に、オスカー・ワイルドは公衆にとって審美主義の化身であった。



【音楽概要】

1 19世紀の末期に、フランスに象徴主義文学や、印象主義美術がさかんになり、
 このグループの影響を受けたドビュッシーは、音楽にこの意想を採り入れて、
 印象派音楽を樹立した。

2 印象派の技法は、従来の機能和声的構成によった長短音階の音組織を、徹
 底的に破壊して、音のあらゆる可能性を再検討し、新しい音梼成を試みた。
 このような音楽を近代音楽というのである。
 多調、無調、十二音音階、その他の新しい技法は、ここから発生して来た。

3 フランス近代音楽は、ドビュッシー、エリック・サティーによって形成され
 ラヴェル、六人組の若い作曲家を出した。中にもラヴエルは、古典派を追想
 しながら、フランス流の洗練された典雅な作風を残し、六人組はサティーを
 主軸とし、ドビュッシーの印象派を排して、現代音楽の分野で活動した。



 

ローマ街98番地の彼の元に席を連ねた人々は

 

文学畑
ヴェルレーヌ カチュール・マンデス ミルボォ
ジュール・ラフォルグ モレアス ユイスマン
ヴェラーレン ピエール・キヤール デュジャルダン
テオドール・ド・ウィゼワ フェネオン ルネ・ギル
ヴィリエ・ド・リラダン シャルル・モリス エレディア
スチュアート・メリル ギュスターヴ・カーン オスカー・ワイルド
ムウレイ ヴィエレ=グリファン エロルド
ステファン・ジョルジュ シュウォプ フォンテーナス
ピエール・ルイス ロデンバック マーテルリンク
ジッド ヴァレリィ クロォデル
ナタンソン兄弟 アンリ・ド・レニエ シモンズ

 

 

画家
ベルトメモリゾ ルノアール モネ
ホイッスラー ヴュィヤール ドガ
ゴーギャン
ルドン

 

19世紀後期

     


 ●19世紀後期のドイツ以外の音楽●


フランス


その他の作曲家  フランク  フランク門下 シャブリエ デュボア デュカ デュパルク シヤルパンティエ ショーソン  
フランス   後期ロマン派の影響
19
C
概
要

     
作
曲
家
  国民音楽協会   印 象 派
          ドビュッシー
  サン=サーンス       ラヴェル
   フォーレ        サティー
   ダンディ        六 人 組


その他の国

 
 (イタリア)イギリス(その他)
概
要
  後期ロマン派の影響 ロマン派の影響    
作
曲
家
     
         
以外     国民楽派  





【19世紀概要】

 1 バッハ以後のドイツ音楽は、パロック時代の惰性から解放されて、
  つねに新らしい建設を続けてきた。これらドイツにおける音芸術
 (Tonkunst)の理論と、その技法は19世紀において、他の国々の娯楽
  音楽の域を遥かに引き離してしまったので、ドイツ以外の国は、
  まったく音楽の後進国に追いやられた。

 2 ドイツでは、明かにブラームスの後期古典派と、ブルックナー、
  ヴォルフの後期ロマン派は対立して見えたが、ドイツ音楽を遅く
  入れた他の国々では、多くは、ドイツ古典派と、ロマン派とを
  同時に受入れ、しかも矛盾を感じなかった。

 
 3 イギリス、アメリカも、音楽演奏家をヨーロッパ大陸にもとめて、
   好楽心を満たしていたが、ようやく、西ヨーロッパの楽風を消化
  して、自国の音楽家を養成するようになった。



(1)後期ロマン派音楽の影響

 フランスすらも、新らしい音楽理念の追及と、新しい器楽の技法は
 ドイツに学ばなければならなかった。しかし、すぐれた文化的感受
 性は、これを消化した上に、フランス独得の音楽を創作することに
 成功した。それはフランキストと称ばれる国民音楽協会の人たちの
 功績によるものである。

 たとえば、当時フランスにおいては、歌劇やバレーに、前世紀の
 王宮音楽の伝統をそのまま承けついで、楽んでいた時代で、重厚な、
 思索的な純音楽の創作は、ほとんど顧みられておらず、活動の停滞
 していたオペラ座は「音楽の博物館」と呼ばれていた(1852〜70年
 の間に上演された新作はわずか5作のみ)
。

  先覚者であったセザール・フランクの作品なども、正当に鑑賞さ
 れる素地が作られていなかった。人々はただ、リスト、バガニーニ
 のような神技的演奏に、音楽の評価を求めていたに過ぎなかった。

  こうした中でも、フランスには、フランクについで、サン・サー
 ンス
、フォーレ、ダンデイのような純音楽 の作曲家を出した。
  この人たちは、ロマンティストではあったが、一面、ドイツ古典
 の合理主義にもあこがれをもっていた。

 特にフランクは、バッハを尊敬していて、しかもフランス独得の正
 統派の「近代フランス音楽」を築いた。

  又、ビュシーヌとサン・サーンスは、ドイツに遅れている純音楽
 (歌劇以外の)を育成する目的で「国民音楽協会」Societe Nationale
  de Musiqueを創立した(1871年2月25日)。

  同時に、フランクの一派のほかにも、自由な立場で作曲運動をし
 ていたシヤブリエ、デュカなどの人々もでて、フランスの作曲界は、
 にわかに活気を呈してきた。

  フランス以外の国々でも、これと同じ経過をたどって、ドイツで
 構成された音芸術(Tonkunst)を吸収し、各国が競って、これの発
 展につとめた。



(2)フランス国民音楽協会(Societe Nationale de Musique)の人々
  セザール・フランク カミーユ・サン=サーンスガプリエル・フォーレ
      ヴァンサン・ダンデイ


1 セザール・フランク
 

フランク
(Cesar Auguste Franck,1882〜90)

「彼は生きているかぎり、また、しばらく後になっても、
不朽であろう。前もって代価が支払われているのだから 」
(ハイネ)


 彼の音楽は、画家フラ・アンジュリコFra Angelicoの音楽だと評され、
一種の神秘観をもっていた。当時のブルジョア的な、サン・サーンス
風のパリー楽壇からは白眼視され、その真価の認められたのは、彼の
晩年、むしろ彼の死後のことであった。その傑作は晩年のものに多く、
いずれも超然として気品の高いもので、しかも現代への多くの示唆を
示した点で注意されている。

 すなわち彼は、ヴァーグナーの半音階による和声技法の発展、神秘
的な幽遠霊妙な旋律をもって、ドイツ音楽とは全くちがった音楽を画
きだした、いわゆるフランス近代音楽の生みの親である。彼の新しい
器楽的功献が、リムスキー・コルサコフを生み、ストラヴィンスキー
を生むにいたったのである。

A フランクの生涯

彼は1822年12月10日、ペルギ−、リエージュの銀行家の子として生れた。
彼の家は画家の家系があり、かつてフランス宮廷画家をだしたほどで、
彼の血の中にも、その遺産が伝えられていたらしい。
 父は子の楽才を認め、幼年時代から厳格な教育をはじめ、11歳、ピア
ニストとして、父に伴われて国内旅行をしたほどである。翌年、リェー
ジュの音楽学校を卒業し、13歳、一家をあげてパリーに移住。ライハに
ついて和声、対位法を学ばせたが、翌年、師の死亡にあい、パリー国立
音楽院入学を準備し、15歳、入学を許可された。ここで作曲をルボルヌ
(Leborne)、ピアノをツィンメルマン(Zimmermann)、オルガンをブ
ノア(Benoi)に学び、在学中は各科に優秀な成績をしめた。

 1842年、父は、演奏家を希望して、学校を退学させたが、彼は作曲を
希望し、44年、パリーに帰って作曲生活にはいった。しかし、彼の作曲
はまだ注意をひかれるにいたらなかった。
 1848年2月、父の反対を退けて、女優デムッソー(Mme Demousseaux)
の娘と結婚した。
 当時、普仏戦争や、最初の歌劇「農夫の下男」(1853)の完成への
過労で、神経衰弱になって、数年間静養しなけれぱならなかった。この
間、一、二の教会のオルガニストや合唱長となったこともある。

 1858年(36歳)、聖クロチルド教会のオルガニストとなり、再び作曲
をはじめた。 ここでは即興演奏で人々を驚かしたという。たまたま、
リストがここに招かれて、彼の演奏を聴き、バッハ以来の第一人者と、
絶賛したという話もある。
 この約10年間に、多くのオルガン曲や、宗教音楽が書かれた。キリス
トの山上訓によった聖譚曲「至福」(Les Beatitude)つぎに「贖罪」
(Redemption)など。これは当時、いずれも不評であったが、彼の死後
三年に上演された時には、大好評を博している。

 その後ピアノ三重奏(ロ短)op.2、ピアノ五重奏(ヘ短)、1882年に
は交響詩「呪われた猟人」、1884年には「鬼神」を作曲したが、これも
不評に終った。この頃からピアノ音楽に興味をもち、「前奏曲、「コラ
ールとフーガ」(1885)「交響的変奏曲」(1885)を書いた。

 1886年には、名曲「ヴァイオリン・ソナタ」(イ長)が、当時の名手
イザイ(Eugene Ysaye,1858〜1931)に捧げられ、これが大好評を得た。
のちイザイは、これを世界各都市で演奏して、フランクの名声を高めた。
 この頃からフランクの声価が、ようやくパリー人士の間に認められ、
シュヴァリエ・レジョン・ドヌール勲章が授けられた。

 つづいてピアノ曲「前奏曲、アリアと終曲」(1887)、交響詩「ブシ
シェ」(1887)、「交響曲」(二短)(1888)が書かれた。この交響曲
は、グノーなどによって酷評されたが、作曲者は平然としていた。
 1890年4月19日、最後の大作、「弦楽四重奏曲」(ニ長)が初演されて、
はじめて待望の大喝采が起った。

 同27日、イザイ弦楽四重奏団によって、再びこの曲を上演して大成功
したが、それから以後健康がすぐれず、その年の2月8日、枕辺に絶筆の
オルガン曲「コラール」三曲を残して永眠した。

B フランクの作風と作品 

 彼の作品には、当時パリーを風靡していた、官能的色彩美に欠けてい
たことや、寺院のオルガニストとして、超然として孤高を楽しんでいた
ことなどで、パリー市民の歓心を得ることができなかった。それゆえ、
残された晩年の作は、宗教的理念の上に築かれ、バッハ、ベートーヴェ
ンの古典派の技法のささえによって、複雑な近代様式に一致させた名曲
ぞろいであることは注目に価する。
 人はフランクを「正教徒的ロマン派」といい、当時、ドイツのヴァグ
ネリアンの第一人者であったリヒァルト・シュトラウスを「異教徒的
ロマン派」といっていた。このようにして、ドイツ音楽の主流は、彼に
よってフランスに、大きな支流が作られたとみなされるにいたった。
 彼の作曲技法で注目されるのは「循環形式」Zyklischeform の使用で
ある。 これは多楽章のソナタ形式などで、ある楽想を、全楽章にわた
って使用するもので、彼のヴァイオリン・ソナタは、その適例である。


(1)管弦楽曲 

  交響曲「二短」(1888) 交響詩「エオリード」(1876)
 「呪われた猟人」(1882)「鬼神」(1884)「プシシェ」(1888)
 「交響変奏曲」(1885)

(2)室内楽曲

 「ピアノ三重奏」3曲「弦楽四重奏)(1889)「ピアノ五重奏」
  (1879)「ヴァイオリン・ソナタ」(1886)など8曲

(3)ピアノ曲

 「ギュリスタンの主題による幻想曲」(1844)
 「幻想曲」op13(1844)
 「ポーランドの歌による幻想曲」op15(1845)
 「前奏曲とコラールとフーガ」(1884)
 「前奏曲とアリアと終曲」(1887)
  その他

(4)オルガン曲 

 「大オルガンのための六つの曲」(1860)
 「前奏曲とシヤルル五世の祈り」(1889)
  など15曲

(5)宗教音楽

 聖譚曲「至福」(1876)「贖罪」(1874)

(6)その他

 合唱17曲のほかに、歌曲が多数ある。





2 カミーユ・サン=サーンス


サンサーンス
(Charles Camilles Saint-Saens,1835〜1921)


 彼の作風は、後期ロマン派の色彩的音感を身につけながらも、古典派の
合理主義を基調とした、いわゆる国際的折衷主義であった。たとえば、ロ
シアにおけるチヤイコフスキー、イギリスにおけるエルガーなどと、その
軌を同じくしている。

 彼の作曲は国際的でわかりよく、たちまち外国にまで知られた。同時に
彼はピアニスト、オルガニストとしても、当代の第一人者で、ヨーロッパ
はもちろん、アメリカへも二度も演奏旅行をした。(マルセル・モイーズ
も同行)

A サン・サーンスの生涯 

父は農村出の一市民で、母は教養のゆたかな上流出であった。彼は1835年
10月9日、パリーに生れ、モーツァルトにも劣らない神童ぶりを示した。
 2歳半からピアノを学び、5歳では、オペラスコアをピアノで演奏したと
いう。7歳頃から組識的に作曲、ピアノを学び、11歳、ピアノ公演をした。

 1848年(13歳)、パリー国立音楽院に入学、オルガンをブノア、作曲を
アレヴィーHalevyに学んだ。1853年から5年間、サンメリー教会のオルガニ
スト、58年には、最も格式の高いマドレーヌ寺院のオルガニストとなり、
即興演奏などで人気を博した。この頃、交響曲「第一」、「第ニ」が作曲
されている。

 1877年(42歳)、十年間奉職したマドレーヌ寺院を去り、以後公職につ
かないで作曲、演奏、指揮に専念した。
 しかし、マドレーヌ時代(1861〜64)に、ニ−デルメイエ音楽学校(Ecole
Niedermeyer)のピアノ科教授となり、メッサージェ(Andre Messager,18
53〜1929)
、ジグー(Eugene Gigout,1844〜1925)、フォーレ(Gabriel
Faure,1845〜1924)などの門下生を出した。

 1871年、ロメン・ビュシーヌ(Romain Bussine)、セザール・フランクら
と、若い作曲家を育成する目的で「国民音楽協会」Societe Nationale de Musique
を設立し、これに主力を尽くした。
 これからの約10年間は、作曲と演奏旅行のために多忙であった。1881年
にはアカデミー会員に推され、この間、最も好評をえた歌劇「サムソンと
ダリラ」Samson et Dalila が完成、1877年にはヴァイマルで、92年にはパ
リーに上演されて、フランス歌劇のために花をそえた。

 1892年にはケンブリッジ大学から音楽博士を贈られ、1907年、父の郷里
ディェブでは寿像除幕式があり、1913年には最高勲章グラン・クロワが贈
られるなど、まことに大音楽家の功労をたたえるに適わしいプログラムが、
相ついで続いたが、1921年、アルジェリア旅行中客死し、パリーで国葬を
もって葬られた。

B. サン・サーンスの作風と作品 

 彼のドイツ古典、ロマン派への理解力の旺盛と、豊富な音楽性とから、
典雅な構成美を作ることに成功し、かつ、歌劇、交響詩などに、ロマン的
な自由な技法を用いた。しかし、フランクや、フォーレのような、民族的
特性を欠いている恨みがあり、彼の傑作といわれるものは、極めてドイツ
的、オーソドックスな作品である。


1 歌劇

 「東洋の女王」op30(1877)「サムソンとダリラ」op47(1877)
 「ヘンリー八世」(1882)など10曲

2 管弦楽曲

 交響曲
「No.1(Mi♭)」op2(1851)「No.2(la)」op55(1856)「No.3(do)」op78(1886)
 交響詩
 「オンファルの紡車」op31(1871)「死の舞踏」op40(1874)
 その他組曲
 「動物の謝肉祭」op - (1886)「運命序曲」op63(1881)
 「ホタ・アラゴネーズ」op64(1881)など。

3 協奏曲

 ピアノ   「No.1(Re)」op17(1858)「No.2(sol)」op22(1868)
       「No.3(Si)」op21(1829)「No.4(do)」op44(1875)
       「No.5エジプト(Fa)」op103(1895)
 ヴァイオリン「No.1(la)」op20「No.2(Do)」op58(1880)
       「No.3(si)」op61
 チェロ   「No.1(La)」op33(1872)「No.2(re)」op119(1902)
 その他   「序奏とロンド・カプリチオーゾ」op28(1870)など。

4 室内楽曲

 「チェロ・ソナタ」「オーボエ・ソナタ」「クラリネット・ソナタ」
  ほか三重奏、四重奏曲など


5 その他

 ピアノ曲、ヴァイオリン曲、オルガン曲
 聖譚曲「大洪水」op45(1875)ほか宗教合唱曲、歌曲など、
 各種類にわたっている。




3 ガプリエル・フォーレ

フォーレ
(Gabriel Urbain Faure1845〜1924)



 南仏ピレネーのパミエルに生れ、楽才を認められ、9歳、パリ、の宗教音楽
学校ニ−デルメイエに給費生として遊学、サン・サーンスの教をも受けた。
サン・サーンス、デュボワの後を受けて、マドレーヌ寺院のオルガニストと
なり、また国民音楽協会の会員として、地味な活動をしていた。

 1896年、マスネーのあとをついで国立音楽院の作曲法、対位法教授となり、
ラヴエル、シュミット、エネスコなどの英才をだした。

 1905年、デュボワ引退後、国立音楽院長に就任し、清貧に甘んじていたが、
1924年11月4日死亡、国葬をって葬られた。

 彼の芸術は、静寂の中に情趣をこめた、格調の高いものであり、ヴェルレ
ーヌの歌曲集はじめ、繊艶優雅な歌曲や、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ曲
などが、世界的に好評をえている。

  彼の作曲は宗教音楽では「鎮魂曲」op48(1888)「アベ・マリア」op93
(1906)ほか数曲、楽劇「ブロメテ」op82(1900)、歌劇「ペネロープ」(1913)、
ピアノ曲では「ノクチュルヌ」「バルカロール」と題する曲が各13曲、「即
興曲」五曲、「前奏曲」九曲などあり、「ヴァイオリン・ソナタ」にはop13、
op108の二曲、「チェロ・ソナタ」はop109、op117の二曲
  その他の器楽曲、そして多くの歌曲集と歌曲があり、フランスにおける
シューマンといわれている。


4 ヴァンサン・ダンデイ

ダンディ
 (Paul Marie Theodore Vincent d'Indy, 1851〜1931)

 南フランスの貴族を父系にもち、気品の高い作品を残した。
 彼はフランス古典に出発し、フランス民謡の研究にも熱心であった。のち
にドイツ・ロマン派の影響を受けたが、セザール・フランクの精神をついで
フランス音楽の中に創作をつづけた。

 彼は1851年3月27日、パリーに生れたが、母は間もなく死亡、祖母の手で
育てられ、 11歳、ディエメにピアノ、ラヴィニャックに作曲、後にピアノ
をマルモンテルに師事した。

 1872年、音楽院でフランクに学ぴ、その精神を強く伝え、国民音楽協会に
も協力して、フランクの死後、その会長となった。
 1896年、フランクの楽風を伝えるために、ボルド(Charles Borde)ギルマン
(Guilmant)と協力して、スコラ・カントルム(Schola Cantorum)を創立して校長
の職につき、生涯を後進者の養成に尽した。その間、各国を旅行し、ドイツ
ではリスト、ブラームス、ヴァーグナーなどと会い、特に1876年には、バイ
ロイトで「指環」の初演を聴いて、強い感動を受け、のちパリーで「ローエ
ングリン」を指揮したほどである。

  作品には

  交響曲 「No.1」(山地民謡による)op25(1886)
    「No.2(美しきフランス)op70(1918)

  交響詩 「ヴァレンシュタイン三部作」
       (ヴァレンシュタインの陣営、ピコロミニ、ヴァレンシュタインの死)
      「山の夏の日」op61(1904)「海辺の詩」op77(1921)など。

  その他室内楽曲、ピアノ曲、声楽曲、歌劇も数曲作られた。



5 フランク門下の作曲家

 フランクの純音楽の系統をついだ人々には、次の名があげられる。


 1 テォドル・デュボワ(Theodore Dubois,1837〜1924) 

   トーマに作曲を学び、ローマ大賞を得た。
   のちオルガニストとして、また1896年、トーマのあと、パリー国立
   音楽院長に就任した。
   作曲も各種にわたっている。また和声学教科書は有名である。

 2 アンリ・デュパルク(Merie Eugene Henri Duparc,1848〜1933) 

   宗教学校を出てフランクに学び、彼の音楽運動に協力した。作品の
   大部分は歌曲(16曲)で、交響詩「レノール」(1875)、ピアノ曲集
   「風に舞う木の葉」などが知られ、後期のものはドビュッシーの
   印象派の影響をも受けている。

 3 エルネスト・ショーソン(Ernest Chauson,1855〜99) 

   法律から転向して晩学であったが、パリー国立音楽院でフランク
   から強い影響を受け、国民音楽協会の組織者であったが、交通事故
   で惜くも44歳で死亡した。

   彼の作品は、高雅典麗で、今日、ヴァイオリンと管弦楽のための
  「詩曲」op25(1896)交響曲「Si♭」op20(1890)交響詩「ヴィヴィアーヌ」
   op5(1882)「祭の夜」op32(1898)などが演奏されている。



(3) フランスのその他の作曲家

 フランクの国民音楽協会派でなかった人々にも、
 次のような異色の作曲家がいる。

1 エマニュエル・シャプリエ(Alexis Emanuel Chabrier,1841〜94) 

はじめ法律を学び、役人生活をしたが、素人作曲が人気をえて、本格的な
作曲家に転向した。19世紀の最も創意に富んだ作曲家の一人であり、当時の
一般聴衆よりも芸術家仲間に高く評価された。友人のデュパルクはヴァーグ
ナー傾倒に決定的な影響を与えた。
色彩豊かなオーケストラを駆使したラプソディ「スペイン」(1883)の作曲家
として最も良く知られている。
 作品の中ではピアノ曲が重要で、彼以降のフランスの作曲家たち、とりわけ
ラヴェルに霊感を与えた。

2 ポール・デュカ(Paul Dukas,1865〜1935) 

デュボワに和声学を学び、ドイツ・ロマン派の影響を強く受け、ゲーテによる
「魔法使の弟子」(1897)の上演以来、その管弦楽法がかわれて、一躍人気作曲
家となった。
 歌劇「アリアーヌと青髯(1907)は、20世紀初頭の大ヒット曲であり、バレー
「ラ・ペリ」(1912)も絶賛をあびた。その作品は少なかったが、いずれも洗練
されたもので、ドビュッシー出現の予言者でもある。

3 ギュスターヴ・シャルパンティーエ(Gustave Charpentier,1860〜1956)

 マスネーに作曲を学び、ローマ大賞を得ている。
代表作は四幕の音楽物語「ルイーズ」(1900)で、初演以来20年で、500回上演の
記録をもっている。このほか交響組曲「イタリアの印象」(1890)も知られている。
1912年、マスネーのあとをついでアカデミー会員に推された。

 その他、オペラ作曲者、または指揮者として有名だったメッサージェ、写実主

義的なオペラ作曲家、 評論家として有名なブリュノー(Luois Brunneau,1873

〜1934)などがあげられる。





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Kunimitsu WAKAMATSU

音楽の文献
     音楽理論・調律関連・音響理論に関する歴史的展望

1482 ラモス・デパレハ 「音楽実践」Musica practica
1558 ツァルリーノ   「和声概論」Le istiumoni harmoniche
1577 サリナス     「音楽論」De musica libri septem…(和声、調律、リズム等に関する理論書)
1581 ヴィンツェンツォ・ガリレイ「古代音楽と現代音楽に関する対話」(半音18:17となる)
1588 ツァルリーノ   「音楽的補足」…12等分割法発表
1596 ステフィン    「歌唱術の鏡」12√2の計算を用いて12平均律を算出
1609 朱載靖      「楽律汎論」《律呂精義》
1618 デカルト     「音楽要論」Musicaecompendium
1619 ケプラー     「宇宙の調和」Harmonices mundi
1630頃フレスコバルデイ  12平均律を使用
1636 メルセンヌ    「宇宙の調和」Harmonie universeIIe…倍音の発見
1676 ライプニッツ   「微積分法」の発見
1687 ヴェルクマイスター「ムジカ・マテマティカ」
1691 ヴェルクマイスター「音律論」…平均律詞律法
1702 ソヴール      倍音列の発見…振動数と倍音の測定
1714 タルティー二    結合音の発見
1722 ラモー      「自然原理に還元した和声」
1724 ナイトハルト    音程計算に初めて対数を利用する [12平均律]
1727 オイラー     「音の物理学」…音を3種類に分類
1739 マテゾン     「完全なる楽長」…演奏を音楽学的に扱った最初の書物
1739 オイラー     「新しい音楽理論の試み」…数学の法則に従って協和理論を発展
1749 ダランベール    弦振動の方程式発見
1754 タルティーニ   「真の和声理論による音楽論」(結合音について)
1853 ハウプトマン   「和声理論入門」
1863 ヘルムホルツ   「音感覚論」
1887 リーマン     「和声理論入門」
1898 デュネット    「音楽理論の歴史」

[演秦論]

1619 プレトリウス   「シンタグマ・ムジクム」Symtagma musicum
1717 クープラン    「クラヴサン秦法」L'art de toucher le cIavecin
1739 マテゾン     「完全なる楽長」Der vollkommene KapelImeister
1752 クヴァンツ    「フルート試論」Versuch einer Anweisung die Flötetraversiêe zu spielen
1753 C.Ph.E.バッハ 「クラヴィーア教本」Versuch über die wahre Art das KIavier zu spielen
1756 L.モーツァルト  「ヴァイオリン教本」Versuch einer gründlichen Violinschule
1803 ベイヨ      「ヴァイオリン教則本」Méthode de Violon
1806 デユポール    「チェロ運指法論」Essai sur Ie doigté du Violoncelle
1931 ビュッケン    「音楽演秦史」Auffürungspraxis der Musik
1942 ドリアン     「演奏の歴史」The History of Music in Performance
1950 H.P.シュミッツ 「演奏の原理」Singen und Spielen

[管弦楽法]

1844 ベルリオーズ   「近代楽器法と管弦楽法」Traité d'instrumentation et d'orchestre moderne

 

 

 

 

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