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本居宣長『古事記傳』原典を読む

 本居宣長の『古事記傳』の原文を読み始めた。

 小林秀雄氏の道案内で『本居宣長』を2度読み返した。

 小林氏のお陰で、本居宣長の文章に少しずつ触れる事が出来
  いよいよ、念願の『古事記傳』44巻の原本読破に挑戦している。

 国会図書館蔵の古典籍資料(貴重書等)に分類されている44巻
  よりなる(刊行時期不明)和綴じ本が其れである。

 小林秀雄氏の本文では、通常の活字として読めるが、和綴じ本では
  先ず書かれている【文字】そのものを判読しないといけない。

 日本語で使われる五十音に相当する表記を今更ながらすらすら
  読み進めていく事が出来ないのが歯がゆい。

 24日から読み始めたが、本日の読破も含めて和綴じのページで

 十六の右半分まで何とか辿り着いた。

 3日で西欧式のB5判くらいの本だと、10ページ程度に相当するので
  まあまあのスピードで進んでいる? ことになろうか?

 音楽家が語る場合の『読む』とは、同時に『理解する』事も
  含まれているので、理解しつつ10ページは進んだ。ので
  気分はなかなか良いモノがある。

 時折『先ほど出てきた文字なのに』と思ってしまう、直ぐに
  判断しかねる『字』も未だ未だ少なくないが、今のところ
  不明な『単語』は3つ程度にしか成っていないので、高等学校
  の時、普通に真面目に勉強した成果が表れていて、うれしい。

 特に、生真面目にガリ勉もした事がないだけに、若い頃の
  勉強が如何に大切か、身をもって体感している。
  この事を音楽を学びに来る生徒達に幾度となく伝えてはいる。

 本居宣長の文章の主張する所に『難点』は感じられない。

 漢意(からごころ)を排除しようとする『意味合い』は
  納得出来る。

 この事よりも、心を新たにして読まさせて貰っている事は
  『原典』を紐解き、その『真意』に迫ろうとする手立てが
  音楽の場合の『原典』に向かってその作曲家の書きざまを
  想像しながら、その心の中に入り込もうとする努力と、全く
  同じ『行為』を必要とされる音楽家としての自分と重ね合わ
  させて貰わしている。

 『てにおは』の重要性を説いた本居宣長が言いたい事と、

 我々音楽家が『読み解かなければならない作曲家の心』の
  細やかな動きとを、同じ次元の事として受け止める事が出来
  『古事記』という世界を目の前にして、その繰り広げられる
  壮大な世界を、まるで『現前に繰り広げられる』如く、読み
  込んで行く本居宣長の姿勢に少しでも近づけるよう、日々
  努力を重ねようと思っている。

 『かな字典』を横に置きながら、一つ一つの字を確認している。
  次は『古語辞典』を久しぶりに開き、意味も確認してみよう。

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本居宣長を読む

 小林秀雄著『本居宣長』

 二度目の読み返しに入っている。

 (コンピュータ、Emacs関係はお休みして熟読中!)

 先月の28日から1週間掛けて『本居宣長』を読み終えた。

 すかさず、2度目の読み返しに入っている。

 読み落としが無かったかを確認しながら読み進んでいる。

 小林秀雄著の文庫本(上)(下)2冊であるが、なかなかの読み応え。

 以前購入した同名のハードカバーの本がどうしても見つからず、やむなく別途購入した。

 インターネットのサイトには『小林秀雄の文章は旧仮名遣いでないと、

 その文体の味わいがでない』等と書かれていたりするが、今回の目的は

 『本居宣長の書いた文章』を理解する事なので、旧仮名遣いには拘らなかった。

 文庫本を購入して得をしたのは、別途購入要であった

 『本居宣長補記 I 』『本居宣長補記 II 』が付いていた事である。

 おまけに(本当の意味でのおまけ)江藤 淳氏との対談まで載っている。

 以前ホフシュタッターの原本『Gödel Escher Bach』を購入した時も、

 同じ様に改訂版には補記が附いていたこともあり2度目の『ラッキー』で有る。

 小林本『本居宣長』の有り難さは、原典を『孫引き』する必要が殆どない事。

 目下本居宣長の『原典』を改めて国会図書館の資料室から読み始めようとしている。

 こちらの方は、少々字体をはんべつするため判別する為の労力が必要となるので、

 時間がかなり掛かる事とは思うが、これも又楽しい作業という事にしていきたい。

 (この辺までは[http://d.hatena.ne.jp/moyse/]はてなブログに載せた)

 読書百遍。意自ずから通ず。と父親から教えられてきた。

 それ以外に今回改めて『本居宣長』を読んでいて感じたことは、

 高校時代の国語の教師がきちんと『古文』『漢文』を教えてくれていた事である。

 古文は、井上ひさし氏の本『青葉茂れる』の中の『裏門校長』と呼ばれて登場していた

 『塩浦先生』の薫陶のお陰である。

 授業の際に書籍を風呂敷包みから取り出して、淡々と語り聞かせる雰囲気は、

 先生の性格同様、真面目そのものであった。

 この風呂敷には愛妻弁当も同居していたので、我々生徒からの冷やかしの種になっていた。

 塩浦先生に習ったお陰で、今でも何とか古文を読む事が出来、

 時折センター試験の『古文・漢文』の問題を解いてみたりしている。

 『本居宣長』を読み進むにつれ、小林秀雄船頭の道案内が上手な為か(?)

 本居宣長が目指す『古典』の世界と、自分が目指す『音楽』の世界との共通点を見せて貰っている。

 音楽家、とくに演奏家は作曲家の『心に寄り添う』ことが出来ないと、

 譜面というものから『生きた声』を聞き出す事は出来ない。

 使う譜面も出来る限り原典を使用する事が望ましい、と教えられてきた。

 宣長の古典を読み解く態度も、全くと言って良いほど同じ過程を辿る。

 『古え人』の心。人間としての『作者の世界』に触れ合う。

 この事は小林本の『引用文』の端端に見え隠れする。

 (この事を意図して小林秀雄氏は原文の引用を多用しているのだが)

 改めて触れる『昔の日本語』の、美しい響きに魅せられている。

 以前、結婚式での『祝詞』の美しい詞のリズムが

 (西洋音楽とは全く異なるのだが)心地好かった事をも、思い出させてくれた。

 昨年末から日本語の『訓読み』について考えていた。

 訓読みと『音読み』の温度差に戸惑っていた。

 個人的に『漢字』(特に旧漢字)が大好きだった事もあって

 色々漢字の成り立ちを考えてきた。

 学ぶところが、沢山ある。

 それにひかえ『訓読み』の元の意味が判らない。

 この言葉は何処から来たのだろう?

 疑問符ばかりがついてまわる。

 この事があり、以前から決めていた

 一生掛けて勉強する対象として

 『ベルクソン』『本居宣長』を挙げていたので、

 未だ時間がある内に勉強を開始しようと

 漸く重い腰を上げた次第である。

 先ずは、慣れない世界なので『道案内』を

 小林秀雄氏にお願いした。

 小林秀雄氏とは図らずも『ベルクソン』繋がり

 というのが、妙なご縁という感じもする。

 小林秀雄著『本居宣長』の文の端端に

 ベルクソンの影響か(?)と言うのを匂わせる

 話の進め方や、説明を見つけてしまう。

 大学時代に『無情という事』『モーツァルト』を

 愛読して以来約半世紀ぶりの再会という事。

 「縁は異なもの」ですね。

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