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古事記傳 二十七之巻読み終える

 古事記傳の二十七之巻を読み終えた。

 途中Parallels6へLinux Fedora17を

  インストールしようとしたが、総て

  失敗。

 仕方なく外付けHDDへインストール

  してFedoraを立ち上げようとしたが

  知識不足で失敗。

 Fedoraをインストールしたり、HDDを

  メンテナンスしている間の時間に、

  古事記傳二十六之巻と二十七之巻を

  読み終えてしまった。

 倭武命の事がいろいろ記されている

  二つの巻であるが、此処での宣長の

  解説が為されていなかったら、

  梅原猛の書き下ろしたスーパー歌舞伎

  『ヤマトタケル』も出来なかった事で

  あろう。

 梅原猛版『古事記』には、本居宣長の

  影響など折に触れて書かれているので

  未だ良いが、角川版『古事記』には、

  その殆どの記述を本居宣長に負うところ

  少なくないはずなのに、本居の事は

  『ふることぶみ』と『古事記』を読んだ人。

  ぐらいにしか注釈されて居らず、添付の

  東征の図解での地名の特定など宣長の説を

  覆すでもなく、何の断りもなくその説を

  引用しているのは、 戴けない。宣長なら

  『わろし』とでも言ったのだろうか?

 本居宣長については、

  よくぞ『古き日本語』を、

  一つ一つ丁寧に読み解いていった事よ。

  と感心するばかりである。

 もうすぐ全巻の三分の二になろうとしているが

  最近気になっているのは『古事記傳を読む』と

  言う名が付いている本の事である。

 此の『古事記傳』から何を読み取ろうとしているのか?

 当初の方針の通り『和綴じ本 古事記傳 全四十四巻』を

  読み終えない内に、その本を読み積もりは毛頭無いのだが

  『古事記傳』の中身をどの様に解釈するか?

  自分自身の[応え][解答]が見えてきたら、他の人が

  書いた解説書にも目を通したいと思っている。

 本居宣長とシュリーマンが今のところ重なっている。

 又[解釈者]としての本居宣長の姿を

  どの様に捉えたらよいのか?

 その事が自分自身に対峙する瞬間が訪れる刻を

  今から楽しみにしている。

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